明治期の新潟は木造家屋が多く、消火設備や耐火建築が進んでいなかったために街は火に弱く度々大火が起こった。
特に明治41年は3月の初代萬代橋が焼け落ちた大火を初め、4月の西蒲原燕町、5月の直江津、6月の新津町、そして9月に再び春と反対側の西新潟を焼き尽くす二度の大火があり、まさに復興のいとまもなかった。
3月の大火は、3月8日午前6時半頃古町8の芸者置屋から出火して信濃川方面に燃え広がり、下町の繁華街一帯1098戸が焼けた。
その余波を受けて萬代橋も類焼して、西三分の二が焼け落ち、二代目萬代橋が完成するまで仮つり橋を掛けて不便をしのいだ。
下、焼け落ちた萬代橋、土手のその先に焼け残った三分の一の萬代橋が見える。
明治13年の大火で全焼した、市役所、警察署、郵便局、電話局がまた焼け、同年二回の大火にこりて新潟市は上水道を整備したという。
下、明治41年の新潟大火の焼失地域地図エハガキ(右斜線が春、左斜線が秋)火元が赤丸
下、急遽作られた仮吊り橋、絵はがきのタイトルにYorozuyo Bridge とある。
萬代橋の正式名は初め「よろづよ橋」であったが間もなく音読みのバンダイ橋となったといわれてるが、この時代でもまだよろづよ橋の名前が生きていたことが知れる。
この当時も大火で逃げるときに家財を持って逃げることが当たり前で、萬代橋が焼け落ちたのもこういった持ち出した家財に火が付いたといわれてる。
持って逃げるものは貴重品だろうが、今回の主役は家に掛けられていたボンボン時計、掛時計である。柱にかけて毎正時にボンボンと時を打つため、一般にボンボン時計と呼ばれていた。一般家庭に掛時計が普及したのは昭和も戦後のことですが、明治6年の改暦でそれまでの旧暦から外国同様、太陽暦(グレゴリオ暦)を採用して時刻制度を現在の1日、24時間制に突然変えてしまいました。この旧暦と新暦を切り替える時に1か月のづれが生じて、現在も月遅れという風習が残っているのです。改暦は今では考えられない1ヵ月前の発表で、明治5年の12月を消して11月から突然正月1月が来たという早業で大混乱したという。明治5年は12月がなかったのです。
今年はちょうど改暦から150年の節目の年です。
ハイカラ文化史―23 改暦と時の記念日ー時の文明開化 : にいがた文明開化ハイカラ館 (exblog.jp)
話も少しづれてしまいましたが、改暦以降日本に入ってきた掛時計は大変高価なものでした。時間管理が必要な公館庁や郵便局、学校、病院などが導入し、やがて商店や旧家にも普及していきました。最初は舶来の外国製の高級時計がほとんどで、上等舶来と言われた時代、掛時計を持っている家は自慢でもあったのです。
ここで紹介する掛時計も明治初期に新潟に入ってきた米国のE.N.WELCH社製のボンボン時計です。明治の新潟町の中心街の鮮魚商で使われていた掛時計です。
明治の改暦後、最初に日本に入ってきた代表的な舶来時計の一つです。
前置きが長くなりましたが、この時計(上の写真)が明治41年春、萬代橋が焼け落ちた大火の時に持ち出して逃げ、その時に時計の一部を欠けさせてしまったというエピソードのある強者です。そして私が20代後半、古時計好きの若い頃、この時計の持ち主と親しかった亡父がそんなに古時計が好きなら、聞いてやろうと言って、話に出かけこの時計を譲ってもらってきました。
当然びっくり、感激してそのエピソードを聞いた記憶が昨日のことの様に思い出されます。もう50年近く前の話です。壊れた部分は修理して現在も立派な現役です。
時計は140歳位ではないでしょうか?
そんな歴史物話が私を新潟の街や歴史に興味を抱くように仕向けたように感じる昨今です。というのもこの時計を授けて下さったこの街中の旧家や蔵が最近、何とか保存活用が出来ないものかと関係者の話題に上がってきたからです。
歴史は巡るものですね、若い当時はアンティークの時計にしか興味はなかったのですが、今は巡り巡ってその前の持ち主の古民家をどうやったら保存できるかと興味を持って歴史的景観を眺めている自分がいます。動産も不動産も一つの輪の中にあるものだと大切に感じました。
現在、新潟では古い街並みや古民家に興味を持って保存に動いてるグループがあって、市議会議員の中にも「歴史まちつくり委員会」が結成され共同で様々な活動が始動しています。
下、昨秋、開かれたまちづくりフォーラム
どうか皆さんにもこれからの新潟のありように興味や意見を持ってもらいたいものです。
近年話題の整備計画「新潟2km」はビルだけが増えるミニ都会化だけが目立ち、新潟らしい歴史的景観が希薄です。街がある程度時代と共に変わっていくのは仕方がないのでしょうが? 古い街をつぶしてのミニ東京化?は・・・無いと思います。
古い街と新しい街がうまく共存してこその住み心地のいい街なのだと思ってます。
どうしたらそうなるのか、新しいものだけを造るのではなく古い街の歴史をどのように残して活性化させるのか。遅まきながら皆が自分の問題として考えていきたいですね。
遺された現役古時計はそんなことを訴えてるように明治の時を告げています。ボ~ン、ボン。