今日は13夜です、先月お月見をした人とまた一緒に13夜を見るといいことがある?という‥後の月見です。
少しもやってますが・・・?
のぼるに従っていい月になってきました。
一緒にいいことがあるように~アップ!!

下、今日の満月、今日は穏やかな小春日和、月もさえて美しい!‥でも風や雲が出てるので明日は雨か?
「文明開化の華 洋燈展」のフライヤーが出来ました、会場の旧小澤家住宅とギャラリー蔵織にて差し上げます。蔵織の志賀さんのデザインです。
ランプは戦後も場所によっては使われていて、高齢者には子供のころの日課としてランプのホヤ磨きを毎日させられて、終わらないと遊びに行けなかったという話も残っています。
それらはほとんどが吊りランプの話で、展示のランプはちょっと古くて特殊なランプに入るのかも知れませんが、まぎれもなく日本の灯火器の流れを汲む工芸品ような味わいがあります。ランプの材質を見ても、ガラス、金属、陶磁器、琺瑯、木(竹、ろくろ細工)などありとあらゆる形を作っていて、職人技を感じます。
日本のものつくりの心を忘れないためにも、その創意工夫は今こそ見習いたいものです。
小澤家住宅の本家の方にも一部、飾らせてもらいます。空いてないときは外からガラス越しに見えますのでご覧ください。
写真は小澤家の中から撮ったものです。左右の一番端の背の高い座敷ランプは小澤家旧蔵のものを修理しました。さすが素敵なランプをお持ちです。

下、小澤家本宅(中より)

下、ランプと一緒に珍しいものが出てきました右側、「ステレオスコープ」と呼ばれる明治に流行った「立体双眼眼鏡」です。
国産ではハンデイーな小型のもが多いのですが、こちらのはスタンドが付いてのぞきレンズの左右にロウソクスタンドが付いて夜でも楽しめるように工夫された高級品です。さすが小澤家の備品です。我屋に種板が沢山ありますので金曜日にまでにお届けします。人物や風景写真(絵葉書)が立体的に鑑賞できるビューアーです。珍品!
左は「万年ホタル灯」大正~昭和初期、こちらも珍品!?



下、こちらは我が家のハンディータイプの小型立体双眼眼鏡(ステレオスコープ)、種板はたくさんありますので金曜までには小澤家本宅に届けます。
同じ種板(写真)が使えるはずです。

からくり儀右衛門と無尽灯(無盡燈)

江戸時代後期に出現した「無尽灯」と呼ばれた当時日本には珍しいメカニカルなランプがあります。
これは江戸後期の天才発明家、からくり儀右衛門こと田中久重がオランダ製の気砲(空気銃)の原理を応用して考案した、圧搾空気式のポンプ仕掛けの菜種油を使った国内初の和製ランプでした。
種油は江戸時代日本であんどんなどに一般的に使われていた灯油でした。
本人や弟子の製品を初め、多くの類似品が出回ったヒット商品であったが、石油ランプの出現によってその姿を消した。
日本の創意工夫を見る優れもののランプであった。
下、左―田中久重タイプ無尽灯、82㎝ 右―大隅源助タイプ無尽灯、68㎝

田中久重は寛政11年(1799年)久留米のべっこう細工師の長男として生まれ、 幼少の頃よりからくりの才にたけ、14才で久留米絵絣を発明して以来、機械技術不毛の時代にあって、「萬年時計」「無尽灯」「竜吐水」「須弥山儀」など 数多くの発明品を残しました。
幕末には佐賀藩に招かれ、蒸気機関や造船(製鉄)にたずさわり、明治初期には東京で田中製造所を創設して明治14年、82歳で生涯を終えるまで日本の近代化に大いなる情熱を傾け大きな成果をもたらしました。
特に幕末(嘉永3年)に完成した萬年時計は現在国の重要文化財に指定され、久重の天才的な天文暦学と和洋の時計の知識や技術を組み合わせた和時計中の最高傑作として外国にも大変評価の高い天文時計です。
下、萬年時計模型

■「江戸の遊び心に見る日本のものつくり」
幕末の開国、そして明治の文明開化によって海外から様々な新しいものや文化がなだれ込んできました。
それを日本人は器用にコピーして自国の産業に造り変えて、近代化を図ったと思われています。
外国への視察研修・留学などの派遣やおかかえ外国人の指導などの影響もありました。
しかし多くの新しい技術を支えたのは旧来の職人でした。
鎖国という江戸時代、緩和策もあって、江戸後期には外国から少なからずの情報が入っていました。
それらを器用に使いこなし工夫発展させたのが細工師と呼ばれた各分野で活躍していた職人たちでした。
その一端は先日、新潟日報の連載小説 「夢をまことに」 で鉄砲鍛冶・国友一貫斎の数々の発明や発案が語られていました。
以前ブログでも紹介した明治の新潟新聞の石版画で、からくり灯火器「ねずみ短檠(たんけい)」も一貫斎は造っています。
下、新潟新聞 明治33年正月号付録石版画の「ねずみ短檠の灯の下で文を読むひと」ネズミの体内が灯油の油槽になっていて、その口から菜種油を滴下させ、油を補給するしゃれたからくり灯火器

下、戦前、昭和初期の絵葉書より「大和長谷寺 国宝 鼠燈梁」
長谷寺伝来のものらしく、戦前は国宝だった?
短檠は茶席などに使われた洒落た灯で、鼠が皿の油を狙っている・・という場面設定?らしいが、ねずみは油(植物油)が好きなんだろうか?これで照明器具とは、面白い!

一方幕藩体制の中で幕府は庶民が無用の力を持つことを恐れ、多くの禁止令を出して、産業の育成を妨げる圧力を掛け続けてきました。
そういった中でも庶民の中に知力、技術力に優れた人材が現れ技術的土台を築いていきました。
特に幕府から特例として目こぼしを受けた「見世物・大道芸」の興行世界では「からくりや時計」などの技術に基づく目を見張るような興行を立ち上げ庶民の喝さいを浴びました。
見世物興業の大掛かりな屋台にも細工人の存在なしには考えられませんでした。
こういった庶民の中で発展した技術力はやがて明治の新しい産業を起こすエネルギー源として熱く煮えたぎっていたのでした。
明治以降の日本の近代化や現代のハイテクやロボットに繋がる技術や創造力は江戸の文化をルーツとしていることを思い知らされます。
日本のものつくりは江戸の遊び心にあり!
明治のものづくりを語るときはそのルーツである江戸は欠かせません。
江戸は面白い、日本再生のヒントは江戸にありです・・・・(その中心に新潟湊があったてんがの・・・?)
江戸職人の象徴的存在が「からくり儀右衛門」こと「田中久重」です。
無尽灯をみて日本のものづくりのルーツを知ると共に、灯火器からも日本と新潟の土地と人のエネルギーが見えてきます。
久重の田中製造所はその後の東芝となりました、最近の東芝、神戸製鋼や日産などのトラブルを見るにつけ、今一度江戸の心意気に戻る必要がありそうですね。
下、田中久重の新聞記事や広告、いずれも読売新聞
①開業広告・・明治8年11月5日新橋南京六町、便利の機械を製造して万家へ備えたく志願也、三潴縣士族七十六翁 田中久重
②明治9年4月5日、モールス電信機の複製を製造して工部省へ納入、西洋人もその出来に驚く!頼もしい人がでます。
③明治9年10月9日、避雷針、一本20~30円にて製造

↓ 万年時計の謎に挑む 1~
https://www.musicjinni.com/i7dKoA0b53m/%E4%B8%87%E5%B9%B4%E6%99%82%E8%A8%88%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%81%AB%E6%8C%91%E3%82%80part4.html


新潟を描いたバンデシネ「鬼火」が新潟日報の10月15日(日)日曜版の読書ページ「にいがたの一冊」に掲載されました。
日報論説編集委員の高内さんが書いてくださいました。
鬼火はセシルとオリビエが日本の妖怪をテーマに描いた紀行漫画です。
昨年フランスで出版され一早く送って頂きましたが、フランス語であったため今一、じれったいところがありました(笑)
新潟大学の駒形先生がセシルの新大留学の時からの縁で手際よく翻訳をまとめてくださいました。
本人も新潟もよく分かっている方に翻訳して頂けたのは特に幸いでした。
世界的な評価の高まりにより、日本での出版も決まりこの10月に日本語版がリリースされました。
3年前のご両人の新潟での活動を思い返すと、ユニークで楽しいものでした。
アニメや漫画を描いて妖怪やお化けに興味があるというのはそれ程意外ではありませんでしたが、日本の歴史や文化にも造詣が深く、日本語がペラペラで好奇心が旺盛というのですからもろもの理解も早いわけです。
それに、ご本人が手紙でこの物語の主人公はギャラリー蔵織の志賀さんだというのですから納得です。
志賀さんは二人の希望を聞いて、いろんなところへ連れまわし日本や新潟の奥深い歴史文化をすり込んだに違いありません。
志賀さんは日本の精神文化論にうるさく、哲学者?なのです。
そんな出会いがこの本を生んだ一面ではないかとうがった、楽しい見方?をしています。
是非、みなさんもこの本をいろんな見方でご自分の妄想を?楽しんでください。
日本語版でこの本の解説を載せた東雅夫氏の「小泉八雲の再来」はあながち大げさではないのかもしれません、その辺は志賀さんが指摘しています。
描かれた絵は、新潟での個展を見て、その素晴らしさに触れていますので、爽やかな絵も懐かしいです。
登場人物がそれぞれOBAKEなのかもで~す!?ぎょえ~!?・・ってことで読んでみてくださいね。
日本語版はギャラリー蔵織で売っています。
先日も志賀さんと「喫茶そらや」さんで鬼火の話で盛り上がりました。
というのもそらやさんは3年前新潟でセシルとオリビエの個展を蔵織と一緒に開催したもう一つの会場だったのです。
その時に作ってもらったハンコも見せてもらいました。
本に載ってる、セシルが残した記録手帳に「山の晩茶」が載っていてそれを飲んでみました。
ご両人は細かに絵入り日記を残していて、それもいずれも正確なものでした。
絵に描いているポットも茶碗もピッタリ、確認できました・・・そんな聖地行脚?も楽しいかもしれません。
そらやさんいつも美味しいコーヒーと笑顔を有難う!


下、鬼火のノートより

ギャラリー蔵織、「栗原良平個展」は明日までです、まだ残り物にも大きな福があります!お出かけを。
二階では亀と蛸がにらめっこ?亀仙人もなかなか迫力がありますよ。

文明開化の華―洋燈展
平成29年11月9日(木)~19日(日)
旧小澤家住宅+ギャラリー蔵織

日本の秋・灯火親しむころー文明開化の華 ランプ展
山も色付き、秋の訪れを感じる季節となりました。
「灯火親しむ候」という季語は「秋が深まり、日がだんだん短くなって夜、室内で本などに親しむにはよい季節だ」といった意味です。
秋風や虫の音も心地よく感じる季節です。
電燈の普及しない時代には昼といえど室内は薄暗く、夜はまさに真っ暗闇の世界でした。
谷崎潤一郎は「陰影礼賛」の中でこの日本の薄暗い世界こそが日本の固有の文化を生み育んだことを繰り返し賞賛しています。
この谷崎のエッセイは照明文化の先進地、北欧でも高く評価され「照明文化のバイブル」として世界中で翻訳、愛読されています。
街中が明るくなりすぎた現代ではその暗がりの恩恵はなかなか理解できないでしょうが、流行のライトアップやプロジェクションマッピングなどよりは暗がりの持つ日本の魅力をもっと注目して、引き出してもよいのではないでしょうか。
戦後の蛍光灯の出現が明るさへのカルチャーショックだったようで、主照明で部屋全体を明るく照らすという考え方は今も健在です。
明るさが文化のバロメーターといわれた時代もありました。
間接照明を上手に使っている外国方が明るさを楽しんでいるように見えます。
照明文化の歴史の中でも明治の石油ランプの登場はまた一つの明るさの革命でした。
石油ランプはその明るさから畳の目が読めるとか、昼のようだと目を見張られましたが、今から見ればささやかな間接照明に過ぎない明るさです。
しかしそれまでの行燈やロウソクの明かりに慣れた人々には驚きの明るさでした。輸入されたランプは人気を得て瞬く間に国内でも各種のランプが作られ普及していきました。
日本中がランプの明かりに彩られた時代があったのです。
ランプはその後を追うように現れた電灯やランプによる火災の頻発により、明治後期を境に衰退していきました。
都会ではランプの全盛期は明治20年~30年代でしょうか。
一部の吊りランプを残してランプの寿命は比較的短かったようです。
あかりをともすという言葉はこのような油に火を灯すランプにこそ似つかわしいのではないでしょうか。
文明開化の華と呼ばれた、ハイカラで懐かしいあかり「和ランプ」の世界をご覧ください。
秋の夜長、日本の明かりのぬくもりに思いを寄せるのも一興ではないでしょうか?
洋燈展は中央区上大川前通12番町の「旧小澤家住宅+小澤家本家」と中央区西堀前通1番町「ギャラリー蔵織」の連携企画展になります。新潟港開港150年記念企画展プレイベントです。
下、卓上ランプ、乳白色着カットガラス、明治、高50㎝
■ 越後と石油新潟市歴史博物館(みなとぴあ)のエントランスホールに現在「シャンデリアランプ」が展示されています。
これは明治元年に開港した新潟港に明治2年に建てられた運上所(後の新潟税関)の事務所に設置された6灯式の米国製シャンデリア石油ランプです。運上所の来館者に驚かれたその明るさは石油(灯油)によるものでした。
米国のオイルラッシュで発見された石油の当時の主たる使用目的は灯油でした。ランプは石油のルーツといえるものでした。よく知られているように「日本書紀」には668年7月に「越の国から天智天皇に燃土と燃水が献上された」とある。これはアスファルトと石油だと考えられている最古の記録です。越後は古くから「越後の七不思議」の中にも取り上げられている石油の里です。越後の自噴する原油はその臭いから「くそうず」と呼ばれ地名にもなっています。(草水、草生水、臭水)古来灯火などにも利用され江戸初期には県内各地で産出され、領主の課税の対象にもなっていた。
幕末の開国は石油ランプと外国産石油をもたらした。ランプの灯は明るく、開化県令(県知事)といわれた楠本正隆は新潟へ着任早々、明治5年(1872年)に275灯のランプ式の街灯を設置して開港地新潟の町造りに貢献した。米国産の石油の輸入により越後の草生水が石油と分かり、政府も明治5年に「日本坑法」を布告して国内資本の鉱山開発を奨励した。その後、法令の下で自由に鉱業事業が出来るようになり楠本県令も石油事業者や豪商を集めて石油振興を説いたという。
また政府による米国人ライマンの石油調査(明治9年~12年)が行われたが、越後の石油の評価は高かった。その中で新潟では新津の中野貫一がいち早く掘削に成功をおさめ、第二回内国勧業博覧会(明治14年)に自家製法の石油(灯油)を出品している。石油掘削は中小の事業者がほとんどであったが、その中から中越では明治20年代に内藤久寛の日本石油、山田又七の宝田石油が群小の石油会社を吸収合併して発展した。明治23年にはこれまでの手掘りの油井に代わり日本石油尼瀬油田で米国製網式採掘機械での機械掘削が始まった。両社は国内採油業の規模拡大と経営安定のため大正10年10月に合併、日本石油株式会社となった。
下、日本石油 事業要覧 大正二年の表紙タイトルに「地底よりランプまで」が上記の事情をものがっている

下、ランプの引札(広告チラシ)木版、明治
左下の街灯が新潟で使われたものと同様なもの、ガス灯のような恰好をして中はランプが仕込まれている。
毎日、点燈夫が点灯、消灯と油を注いだりホヤの掃除をして回った。
下、「越後七不思議の二つ、中蒲原郡柄目木の火、草水油煮坪」新津界隈の天然ガスや石油自噴井戸の案内チラシ、木版、明治
下、「越後の国七不思議の内、中蒲原郡田家村自然火、 油の煮壺潮の湧井の図」新津界隈の天然ガスや石油自噴井戸の案内チラシ、木版、明治
下、「同、石油煮壺之図、澤田市造宅自然火入湯、同火の仕掛」石油自噴井戸を見学してる図や天然ガスを引 き込んで煮炊き、風呂に利用している図、明治
下、「越後の国名所 七不思議 第壱番 名生火 蒲原郡妙法寺」 木版チラシ
古くから各種の越後の七不思議があげられている、有名なものは二つで、一つは親鸞伝説の「越後の七不思議」で主に「逆さ竹」など植物が多い。もう一つは橘崑崙の「北越奇談」による「古の七奇」でこちらは自然現象が多く、この中に燃える土、燃える水、火井などがあげられている。

■ 日本のランプ
日本のランプは日本のガラス産業とも密接に関連していました。日本には江戸時代から小規模ながらガラス産業が発達していましたがあまり大きなものは材質・製法の関係で作れませんでした。
幕末、明治初期に国内に入った舶来ランプはまず消耗品のホヤから製造が始まり、外国のガラス技術の導入もあって、間もなく舶来ランプをコピーした国産ランプが作られるようになりました。
元々日本には燭台や行燈などの和式照明器具が普及していましたので、やがてそのデザインや使い勝手を上手く応用した、独自の和式のランプが多数現れ、新しい日本の照明文化が花開きました。
下、座敷ランプ、高70㎝~80㎝

新潟においてはガラス製造の熱源として天然ガスが豊富にあったため、明治大正以降新潟市や、長岡、柏崎などにガラス工場が稼働していました。
大正~昭和初期、長岡硝子工業組合のマークの入ったランプやホヤを時々見かけます。新潟旧市内においても戦後までガラス工場が残っていました。
石油ランプは日本の石油産業やガラス産業の発展を支えたルーツであることを再認識したいものです。石油ランプは本来外来の文化ですが日本人は和魂洋才を生かして魅力的な日本の文化に仕上げました。
今回展示されるものはすべて明治~大正の国産ランプです。
吊りランプは展示の関係で割愛しましたが、その多様で魅力的な姿をご覧ください。
下、越後長岡井上商会製ランプ引札(広告チラシ)大正
下、柏崎硝子製造所正門 (柏崎硝子、硝子器カタローグより、大正~昭和初期)
下、瓶製造作業場の一部、右奥に炉、ふき竿でガラス種を取って吹き→成形工程が見れる
下、ランプ製品、豆ランプやロウソクランプなどが見える(柏崎硝子カタローグより)
下、ランプ・油屋の引札(広告チラシ)明治、ランプ屋の店頭とランプのホヤ掃除の図

下、子供風俗「かげえあそび」明治版画、宮川春丁画、ランプで影絵遊びをしている
下、柏崎硝子のカタログに見える「瓢箪形豆ランプ」ミニ盆栽は「ぼんさいや季」の若旦那のもの。

「中秋の名月」とは旧暦、太陰太陽暦の8月15日の夜の月のことをいいます。今年の中秋の名月は10月4日です。
「中秋の名月は美しい満月である」と思われていますが、しかし今年は、10月4日が中秋の名月、その翌々日の10月6日が満月と、中秋の名月と満月の日付が2日ずれています。実は、中秋の名月と満月の日付がずれることは、しばしば起こるのだそうです。
うかつにも出遅れましたが、今日の天気も今一で、どんより。
満月前後の月はとても明るく見ごたえがあり、満月と遜色のない美しい月を楽しむことができるとのことで、雲の合間を窓から目が合い、見つけました。おそよう!
追伸
今日(5日木)は天気も良く、名月探検に!?
明日が満月ですが、うり二つ!


日報にサービス画像です?

下、自宅の窓からも名月が・・今年も猫とお月見。
ちょっと夏にヤンチャしてガングロ猫ですが・・・?ちゃう、ちゃう・・福を呼ぶ黒猫君です。

下、こんな顔です!ちょっとメイクが濃いので♀?、猫背18㎝

下、今日の夕日畑

若いフランス人カップル、セシルとオリビエは3年前の日本(新潟)での滞在の体験記録をもとに帰国後、フランスでバンデシネ(漫画)をまとめ、「ONIBI」を刊行しました。
今回その待望の日本語翻訳本が刊行された(祥伝社)のは快挙でした。(10月2日ギャラリー蔵織販売開始)
フランスで発行された後、オリジナル本を頂いたり、取り寄せたりしましたが、絵の素晴らしさは分かってもフランス語であったため、内容が今一つつかみ切れていませんでした。
それを一早く解消して下さったのが、新潟大学でフランス語を教えておられる駒形千夏先生でした。ご両人とも旧知の仲で、フランスへも出向いて交流されて、翻訳家としては最適の方でした。日本での出版も駒形先生のご尽力が大きかったのだと思います。有難うございました。
本に描かれている内容が日本の歴史文化ですし、その舞台が新潟市であることがとてもリアルで、風景や人物、風までもが生き生きと輝いて見えます。
元々日本の文化やアニメに魅せられたセシルが新潟大学に以前学んだ体験がその根底にはありますが、二人の取り上げた日本の「妖怪」という素材は新潟という地域と絡んで、紀行漫画としても秀逸です。
この様な新しい切り口は地元にも、観光資源になりそうな魅力をたっぷりと含んだ新鮮な新潟物語に写ります。
この本はネットではすでにオリジナル本が日本中はもとより、世界中から賞賛が寄せられて、この世界の情報伝達の速さと盛り上がりに驚きます。
「すらるど(海外の反応)」http://sow.blog.jp/archives/1062249049.htmlもう時代は外国人が日本の文化を描いたといった評価を越えて、誰がどういう魅力的な発信ができるか、その内容が問われるのでしょう。
新潟での個展で見せたお二人の絵の力はなかなか素晴らしいものでした。
ネットでの評価はジブリや水木しげるなどの影響が触れられていましたが、ご本人が川瀬巴水(大正~昭和初期活躍した浮世絵師、版画家)が好きだといってるように、むしろ日本の伝統浮世絵の本流の懐かしさを感じます。
前のブログの司馬遼太郎の「この国のありかた」でも書きましたが、日本の土着の八百万の神(やおよろずのかみ)と伝来した仏教が習合して日本独特の価値観が生まれました。
この様な日本の多元的な世界を認めるという柔軟な考え方や思想が様々な神話や伝説、ひいては妖怪を生み出したとすれば、ONIBIにつながる日本の絵画(アニメ)もようやく世界にその独自性が理解されて来たように思える。ONIBIの独創的な着想はむしろ日本的なユニークさである。この本をきっかけにどんどんいろんな新しい新潟物語が紡がれることを期待したい。
(蔵ジィも以前からコツコツと、越のくにの絵本を書いてるそうな・・・?)
「新潟を舞台にしたバンデシネ ONIBI・鬼火」http://hikarataro.exblog.jp/26457565/
上図、新潟築港記念博覧会ポスター(大正15年)大正15年4月から6月まで白山新公園で開かれた大規模の築港記念博覧会
明治になって新潟港には汽船が入港するようになりましたが、港は相変わらず水深が浅く、冬は荒れて近づけない港でした。
大型船は天候などにより入港できず、海上に投錨して艀による荷役のため、大変危険なものでした。水深を深くして安全な港にすることは新潟の悲願であった。
政府は明治4年から新潟港修築を信濃川治水対策と併せて調査していたがなかなか工事は着工されなかった。これについては以下の記録が残っている。
明治初期、お雇い外国人技師として雇われた英国人「R.H.ブラントン」は日本の灯台の父と呼ばれたが、横浜の町造りや開港地新潟に関連する「信濃川河口改良計画」(1871年)の立案にあたっている。
明治4年(1871年)6月21日、新潟にテ―ボル号で来港、
信濃川河口流量測定
9月29日、外務省にて信濃川河口改良計画を説明
10月19日、信濃川の調査のためS.FISHERとWILSONを派遣
下、88図、信濃川河口改良計画説明図、1872年英国公文書館蔵、横浜開港資料館「R.H.Brunton」(平成3年)より
新潟は新潟港修築工事をたびたび嘆願して早期着工を訴えた。
明治19年8月政府は信濃川の治水対策として河身改修と堤防改築工事を実施し、その完成後に河口部の流末改修工事を行うとし、新潟港の修築は後回しにされた。
なお陳情を繰り返し、ようやく明治28年に流末改修工事を行うことに可決された。
流末工事は信濃川の流れを左岸側(新潟側)に固定するために堤防を築くことと、通船川の出口を締め切り、新川(現在の通船川)の出口を開削して合流をスムースにすることであった。
明治29年に着工したが工事は難航して、明治37年4月にやっと2年遅れて竣工した。
しかし、突堤は県・市に引き継がれたが、すでに西突堤先端が流されたり、中央部が壊れたりしていた。それでもようやく、水深は3~4.5mを保つようになったがまだ浅瀬が残り、大型船は入港できなかった。
下、新潟港修築工事概要、大正6~7年頃、赤線領域が工事区域
明治40年に浚渫を含む河口修築工事を大河津分水開削工事と共に実施することがようやく決まった。浚渫を中心とした工事を着工したのは明治42年7月であったが、浚渫が順調に進むようになったのは大正11年(1922年)に大河津分水が通水して流下土砂が減少するとともに浚渫船が増強されてからであった。航路は大正15年の工事終了までに水深5.7mになり、痛みの激しかった西突堤は1517mに延長、補強された。これに伴い船見町2丁目の灯台は西突堤の先端に移された。
この
4代目灯台は鉄筋コンクリート造りの円筒形、外壁は赤色、高さ9.1mで大正14年6月にアセチレンガスで点灯した。この灯台は昭和39年の新潟地震まで活躍した。
下、築港突堤工事、突堤の上には内側に狭軌の線路上に小型の蒸気機関車でコンクリートブロックを運んだ、外側には広軌の線路があり、大型のタイタンクレーンを運ぶ。突堤の左は信濃川河口、右は外洋、大正
下、4代目灯台建築中、大正末期と完成後4代目赤灯台、昭和初期、右に帰帆の北洋漁業船
下、新潟築港突堤の怒涛、右が信濃川河口と北洋漁業帆船、左が外洋、大正
そんな中、沼垂町と新潟市は築港の機運が高まり、大正3年4月1日に合併した。
そして新潟市は政府の築港実施を待たず市営による東岸(沼垂)の築港工事を決めた。
大正6年に起工式が挙行され市内には大きな凱旋門のようなアーチが作られ、まるで正月が来たようであったという。
下、新潟築港起工式 大正6年 下、新潟築港起工式、市内大アーチ、上、鏡橋、下、古町十字路


工事は北埠頭側から始められ、大正9年不況により工事は県営に格上げされて続行された。
大正11年には大河津分水が完成して、築港工事も順調に進み、大正15年3月に近代的な県営埠頭は完成した。それを記念して4月14日から7月20まで新潟県物産陳列所と白山新公園で新潟築港記念博覧会が開催され186000人余が訪れた。
下、新潟築港記念博覧会、第一会場新潟県物産陳列所、第二会場白山新公園
■ 臨港埠頭と信濃川埋め立て工事山ノ下の国有地で明治末から乳牛の放牧をしていた、白山裏の搾乳業「新潟健康舎」は山ノ下の港湾事業に乗り出し、大正9年に新潟臨港株式会社と改称した。
築港工事は大正11年許可され、珍しい民間経営による埠頭築造が決まった。
大正14年には臨港岸壁の一部と臨港鉄道が完成した。
県営、臨港領埠頭の築造と前後して信濃川右岸の工業化も急速に進み発展した。
明治28年(1895年)日本石油新潟鉄工(M43 に新潟鉄工)
明治40年 日本石油新潟流曹
大正7年 宝田石油製油所
大正6年 新潟紡績(日東紡績)
また、大河津分水完成後の信濃川を従来の4割ほどの150間(270m)に狭めた信濃川埋め立て工事は昭和4年に着工された。
それにより、埋立地には萬代橋(昭和4年)、昭和橋(昭和6年)、白山小学校(昭和7年)
白山総合運動公園(昭和12年)、新潟市公会堂(昭和13年)などが続々誕生した。
下、「臨港会社 事業地案内」昭和4年3月、新潟臨港株式会社刊
■ 新潟健康舎とリンコーコーポレーション現在のリンコーコーポレーションは新潟港の東港区・西港区を主要拠点として倉庫・運輸など物流事業を中心に展開している。付帯事業として不動産業をはじめ、新潟市中央区のANAクラウンプラザホテル新潟、佐渡市相川地区のホテル大佐渡などのホテル事業を行っている他、新潟市東区の新潟臨港病院を運営する医療法人新潟臨港保健会を保有している。(ウイキペディアより)
1905年(明治38年)11月12日 - 株式会社に準ずる法人「新潟健康舎」として創立、牧畜及び牛乳販売を目的とする。
1914年(大正3年)5月 - 営業目的に倉庫業、運輸事業、不動産事業などを追加。
1920年(大正9年)10月- 新潟臨港株式会社に商号に変更。
新潟健康舎の創設と経営に尽力したのが柏崎出身の村山米策であった
村山は上京して牛乳販売に従事したが、その後新潟に移住して牛乳販売店を立ちあげた。
明治35年頃には合資会社化して村山が代表社員になった。こうした中、新潟病院長であった池原康造の知遇を得て牛乳の重要性を認識し、経営規模の拡大を勧められ白山裏一丁目に牧場を開設して乳牛の飼育と搾乳を開始した。さらに株式会社化を目指し、同郷の関矢儀八郎や新潟の財界の荒川才二、高橋助七などの協力を得て法人化した。
事業の拡大と共に手狭になった白山裏牧場を、信濃川河口右岸の山ノ下の広い国有地を借り入れて牧場と牛舎を新設した。この時点では健康舎としての牛乳業の為であったが、やがて広大な砂丘地を開墾して事業が拡大していく過程で、新潟港の将来性を予見して山ノ下一帯の開発構想が進んでいった。時はまさに新潟築港の発展期であった。村山は志半ばで倒れたが、跡を継いだ川上佐太郎、佐次郎によって事業は発展展開した。
牛乳業から始まった、港湾の先見性を読んだ壮大な計画と実践、チャレンジは民間企業として大いに評価されている。牛乳業は戦前まで続けられたが、リンコーのルーツは牛乳屋さんだったのである。
市街を外れた、白山裏や学校町には牧畜業や搾乳業が多かった。
下、新潟市全図、明治45年6月新潟市役所刊、
白山公園の隣の白山裏には古くから大きな洲が付いていた。
そこに新潟電燈会社の火力発電所が出来て市内に電気を送っていた。その左に新潟健康舎、常盤ラムネの工場があった。
この洲は文明開化のたまり場であった。
■ 新潟電燈株式会社明治31年3月から白山裏の洲に火力〈汽力)発電所が設立され電燈営業が開始され、市内の電燈632灯に電気を供給した。
創立当時は鈴木長八が社長であったが間もなく中野平弥に代わった。電気料金は高く、電機は怖いというイメージから導入したのは官庁や商店の一部であった。
この頃の電気の契約は、電灯1個単位で明るさと供給時間帯で電気代が決まっていました。今のような従量制ではなかったのですね。
明るさは燭光で表し、時間帯は23時までの半夜、2時までの深夜、朝までの終夜に分かれていました。供給は夜だけです。
灯りが必要なのは夜だけでした。なので632灯とは正真正銘、632個の電球を点すことでした。
やがて明治42年に水力発電が始まり、時代は水力発電に移行します。
水力発電の1号は明治36年新発田・赤谷鉄鉱山の為の輸送用の電力だったのですが、結局開発は中国にめどがついて中止となり、発電所は新潟水力電気に貸与された。
これをきっかけに水力発電も各地で普及し始め、大正を迎えてやっと電燈も大衆化の時代になった。
2代目萬代橋の脇に写真に見える大きな鉄塔(信濃川越鉄塔)は水力発電の送電線を信濃川を越えて新潟へ送る鉄塔である。
電燈会社の詳細は「新潟ハイカラ文庫ー新潟電気事始め」をご覧ください。
http://actros.sakura.ne.jp/file6.html下、「白山堀より新道及び電燈会社を望む、明治末期
一番堀の奥の高い煙突と建物が新潟電燈会社である。右は物産陳列所(現市役所、旧県庁)のレンガ塀と奥が白山裏通リ
白山裏通りは明治11年明治天皇北陸巡幸の為に作られた道路(道)のため新道と呼ばれた。
下、戦後、昭和20年代の絵葉書外袋、灯台は相変わらず新潟の顔であった、右は赤灯台がセメント色に変色?しているし、光源のフードもなくなっている、戦争の影響かもしれない。

江戸時代、新潟湊は海から入ってくる他国の船や信濃川、阿賀野川を下る舟などが集まり賑わっていた。川から入る舟を「川通りから入る」、海から入るものを「沖の口から入る」といった。船は年貢米を運ぶ回米船と商人たちが運ぶ回船があり、江戸中期以降は買い積回船と呼ばれる、船頭が各地の荷を売買するようになっていった。
湊には回船の船頭の宿となり、荷の売買の仲介をする回船問屋をはじめ、近在の米を売る農民の世話をする在宿、回船の積み荷や町蔵の荷を出し入れする小揚、それらを運ぶ艀船道など、湊にかかわる様々な人々によって新潟湊が成り立っていた。また商品が売買され無事出人港するまで多くの仕事が分担された。
出船、入船でにぎわった新潟湊であったが、元々河口の湊であったから、河口部に上流から土砂がたまり、河口海底に背と呼ばれる水深の浅いところが出来、その状態もよく変わった。
その為、湊に出入りする回船に水深を教え、安全に水路(水戸)を誘導するのが水戸教と呼ばれる水先案内人の仕事であった。
「みときょう」と呼ばれるが「みとおしえ」の方がその実態が分かりやすい呼び名でしょう。
下、回船問屋、清水芳蔵の正月用引札(チラシ)、明治26年石版印刷(錦港堂関甲次郎)湊のにぎわいと、左に三代目六角白灯台と水戸教、警戒信号塔、信号旗章一覧

水戸教の仕事は江戸時代半ばから伊藤家が世襲するようになり、当主は代々、仁太郎を名乗った。
水戸教のつめている小屋(仁太郎小屋)は河口近くにあり、回船問屋の手代が詰める下小屋と並んで建っていた。
回船が近づくと手代たちが通辞船という小舟(天渡船)に乗って向かい、入港を確認すると次に水戸教が停泊地まで誘導した。
新潟湊の水戸教は新潟湊に入る船だけでなく、沼垂へ入る船も誘導し、海難事故にも対応した。新潟湊の安全は水戸教の力が大きかったのである。
水戸教や、日和山などの名称は全国共通で川港には多かった。
下、先の三代目灯台に引用した回船問屋、西村治郎助、
木版引札より。正面に灯台、水戸教部分拡大水戸教の櫓と水戸深浅、信号旗用の竿が何本も立っている。右下に仁太郎小屋
下、明治初期鶏卵紙写真、「越後新潟港港口」水戸教の櫓
明治3年3月、県は水戸教を廃止し、着色した樽を浮かべてそれを船路標識としたがうまくいかず、10月「水戸教兼、外国船出入注進番」に任命して水戸教を復活させた。
明治6年には回船問屋の株仲間廃止に伴って伊藤家個人の事業となったが、明治13年1月に県は「新潟港水路教導仮規則」を定めて水戸教を公的事業にした。
この頃の水戸教は日々、水深を測り日中は標識旗を立てた小舟を漂泊させたり、直接誘導したり、船見櫓の上に標識旗を掲げ出入りの可否や水路の方位を伝えた。
この仕事は昭和初期まで続いた。
下、回船問屋 前田松太郎引札、木版、明治19年
左に水戸教櫓、中央に三代目白灯台、右に新潟税関

下、「新潟市実測図、明治24 年、印刷発行者小林二郎、編集者櫛谷国松」
新潟港口の地図、河口砂丘に灯台と警戒票の下が水戸教、その他には何もなかった

下、新潟市実測図拡大図、明治24年「上、白六角ー三代目灯台、下、警戒票(警戒信号掲揚塔ー仁太郎小屋)

下、新潟市実測図、明治24年より、河口砂丘地ー灯台と水戸教の位置関係

下、砂丘地、位置関係を示す写真、明治後期
左ー六角白灯台、右ー水戸教櫓と警戒標掲揚竿、右下、仁太郎小屋

下、新潟市実測図、明治24年より「新潟港深浅の旗號」
「船見臺の上にて小旗を振りたるは船舶入港する能わず」左に水戸教櫓、右に三代目六角白灯台
参考文献:「新潟湊の繁栄」新潟市歴史双書―1,2003年新潟市刊
新潟灯台物語、2代目の黒灯台の話-②から早いものでもう2年近く立ってしまいました。
http://hikarataro.exblog.jp/25187197/ 新潟町建て400年記念-新潟灯台物語②黒い灯台を追って(2015-12-17)そんなことを言ってるうちに開港150年記念ということで港が盛り上がり始めました。
今では港の灯台を振り返る人もいなくなりましたが、戦後まもなくまでは灯台は港新潟のシンボルでした。
湊あっての新潟という認識や心意気は年々薄れているように感じます。
新潟の土台は港です。港の歴史をもっと深く知ることが未来につながるのだと思います。
未来志向が叫ばれる昨今ですが、過去を振り返らず未来は見えてきません。
灯台に引っ掛けて話が大げさ?・・・いえマジです。港新潟の歴史を造り上げた人たちの足跡もこの機会にもっと知ってほしいものです。
150年記念の肝はそこだと思います。
さて、この三代目灯台は、それまで県が管理していた2代目灯台が明治14年7月工部省直轄、国の管理となったものでした。それと同時に灯台が新築され、同年10月20日に正式に工部省に引き渡された。その3代目灯台は木造六角で、光は不動白色、高さは43尺(13m3㎝)、2代目の黒い灯台よりも少し背の低い少し太めの白色の灯台であった。
下、廻船問屋、西村治郎助の引札に描かれた3代目白色六角灯台、明治20年代、木版
下、新潟新聞 、明治15年9月27日付「〇今度当港の水戸口なる燈明台を更に新築せられしが燈光は海上九里余を照らすべき見込みなりと」
下、明治39年絵葉書より
灯台の右の建物は灯台守の官舎です。
下、明治後期絵葉書より
下、新潟港口遠望、明治後期左灯台、右の櫓は河口にあった水戸教の仁太郎小屋
下、明治初期、鶏卵紙写真「越後 新潟港口」水戸教櫓と仁太郎小屋
この六角灯台は大正14年6月新潟港築港工事により突堤の先端に建てられた4代目赤灯台に変わるまで40年余にわたり港のランドマークであった。
この六角灯台の立地は2代目同様、河口やや内陸に位置して、同周辺にはほとんど建物のない小高い砂丘地であった。
その為海からもその存在は際立って見えた。
下、本州北西岸敦賀湾至新潟港、明治30年8月11日発行、水路部海図「新潟港―イラスト」より
その後、4代目灯台設置によって撤去された3代目灯台は払下げられて、その基台は山ノ下の新潟臨港会社の本社隣の砂丘地に公園を作って移築され「臨港台」という展望台として活用された。しかし、昭和14年4月惜しくも失火で焼失してしまいました。
下、新潟臨港株式会社、昭和5年広告左奥が本社屋、右上、臨港台と名前が入っている

その姿は現在みなとぴあの旧新潟税関の隣にトイレとして縮小復元されている。
今では河口の灯台に興味を持つ人は少ないでしょうが、明治~昭和初期においては港の顔として灯台は各種の観光案内には欠かせない人気ものでした。
下、新潟新聞、大正4年6月9日付記事、「新潟灯台改良ー航海業者の喜び」
「新潟灯台改良ー航海業者の喜び」
新潟燈台は従前不動白色十海里を照らす装置なりしもその構造旧式に属し降雨若しくは雲霧降下の際は光達十分ならず航海業者は往々不便を感ぜしも今回明暗瓦斯装置に改良したる結果、光達十四海里余の遠距離に及び航海業者に多大の便利を与ふる事になりし為当業者は大いに喜び居れりと

それまでの光源は多分、ランプなどの石油系だったと思われ、明治後期から普及し始めたアセチレンガス(カーバイトランプ)を使った回転式光源に変わったことを示す記事。この光源は4代目にも踏襲された。
この3代目の白色六角灯台は長きにわたって新潟港のシンボルとして活躍しました。
その少しずんぐりとしたスタイルはなかなか愛嬌のあるデザインで、当時の灯台スタイルの典型でしたが、今見るとレトロな好奇心をくすぐられます。
産業遺産などと大げさなことではなくとも、記憶遺産として登録してデザイン活用を望みたいものです。
是非、地元作家さんには復活アピールをお願いします!
「開港150年記念記憶遺産グッズ」として‥作品に生かしてくださいね?
レトロで存在感があって、きらいな言葉だけど・・かわゆいです!!(笑)
どうですか?ねんど母さん、中村さん、栗原さん、池田さん、横木さんの姉さんがた!
希望記憶遺産グッズ
①六角白色灯台
②報時塔―大圓寺公園にあったサイレン塔
③赤バス(ボンネットバス)-初代市内バス
④安進丸―外輪川蒸気船、船シリーズ(北前船や北洋漁業船)
⑤木製萬代橋(初代、二代、二代の上に赤バスもあり!)
⑥電鉄(3代目萬代橋の上に幻のLRTもあり!?)
⑦日和山、水戸教
⑧堀と柳と姉さん(人力車)
⑨カトリック教会
⑩運上所や県会議事堂
⑪時計塔(明治の郵便局、公会堂)
⑫ドン山
⑬白雲郷の大仏様
⑭ぐるぐる狛犬
⑮船絵馬
⑯臨港丸(船バス)
⑰SL
⑱自動電話ボックス
⑲雪氷売り(はっこい、はっこい~氷ィ~♪)
などなど・・・余計なお世話?