稲川先生「蔵織夜話」との別れ
長岡の河井継之助記念館館長の稲川明雄先生が12月12日、亡くなられました(上の写真は4月13日蔵織夜話より)先生は新潟市西堀前通1番町ギャラリー蔵織で2007年11月から足かけ12 年に渡って月一回、歴史講話の講演会「蔵織夜話の会」を続けて来ました。「長岡から見た新潟・・」とサブタイトルが付けられているように、いつも「私が新潟の話しをするのはおこがましい・・」と言いながら、話は新潟・長岡だけの話にとどまらず、日本から見た越後・新潟の話まで縦横無尽に展開する歴史物語に多くのフアンがその魅力に引き込まれ、稲川組と称されるコアなグループが形成されてきました。
歴史の中心は人物であり、人が歴史を作っていくと言うポリーシーに沿った話は分かりやすく説得力がありました。先生のお話は歴史から見えてくる事実だけでなく、それぞれの人生にまで投影された人生訓のような趣もあって、受講生の心に響きました。未来志向は歴史の中にあるというのが口癖でした。
講演を終わってからの質疑応答やフリートークも本音が聞けて楽しい余韻でした。
近年。体調を崩され、お休みしたり復活したりでしたが、皆の要請で先生を車で長岡から新潟へ往復して拉致?したことももう懐かしい思い出です。
80回を超えた講演会は正に新潟の宝、金字塔です。「もう話すことがないやぁ~!」と言わしめた講演会もドラえもんのポケットのように次から次へと出てくる手駒に皆夢中でした。
スポットでもいいからと、復活を期待していましたが、願いは叶わず心残りで残念でした。
下は最後の案内となったハガキ、第88回、6月の89回は中止となりました。
もう一つ、先生との大きな思い出は、平成24年に開催された「にいがた市民大学」新潟学コース<市民企画講座>でした。
これは蔵織夜話の仲間の鈴木哲さんが第18期平成24年度のにいがた市民大学市民企画講座の一般公募に応募して企画案が見事に通ったものでした。
この企画立案には指導教官(講座コーディネーター)が必要でした。
鈴木さんは蔵織夜話のよしみで強引に稲川先生にコーディネーターをお願いして、先生も引き受けてくださいました。
半年間、前期と後期に分けて、前期は講演会形式、後期にはゼミ形式にして街歩きからレポート作成まですっかり稲川先生にお世話になりました。
ゼミの最中にTVの取材が入り、稲川先生が宝くじのTV-CMに出演し・・「くーちゃん、宝くじはね?・・・・」という名(迷?)演技のCMがしばらくTV放映され話題にもなりました。
その辺のゼミの事情は講座修了時に出された「後期ゼミナール修了レポート集」の巻頭に先生が書かれていますのでご紹介します。このレポート集は後期講座に参加した人のレポートをまとめたものですが、それを監修者として稲川先生が感想と思いを示されたもので、先生の真摯な姿勢と励ましに似た優しいまなざしが伝わってきます。
この修了レポート集は後期講座の参加者に配られた限定版で、ほとんど多くの人の目に触れることはないでしょうから先生の言葉としてご覧いただくことにしました。(このレポート集は市の図書館には置いてあると思います)
私は先生のおかげで郷土史に興味を持つことになり、後押しされているような気持ちでささやかな活動にも弾みがつきました。
先生いわく、「郷土史は自分を見つける旅・・・」だそうです・・しかし、劣等生は迷いながら・・、もっと蔵織夜話を聴きたかったです。
貴重な時間と心の遺産をありがとうございました。
感謝しかありません、長い間お疲れ様でした。
合掌
下、新潟日報 令和1年5月26日「新潟人の本棚」