ドル箱とは現代では金づるのことを言いますが、元々の語源は$箱、つまりお金を収める箱=金庫のことです。幕末、外国から入ってきた洋式金庫のことを弗箱とか金張箱とか呼び、やがて明治初期、鍛冶屋を中心に国産の金庫屋が誕生しました。
そのきっかけは幕末、幕府献納の洋式金庫を鍛冶屋の竹内弥兵衛や中北米吉が修理してその後、大倉金庫(竹内金庫)、山田金庫(山田屋・中北米吉)が洋式の金庫を造り始めたものです。
これらの金庫の経緯については以前に旧斎藤家別邸の金庫についてブログに調べてありますので参考に。(ブログ「にいがた文明開化ハイカラ館」http://hikarataro.exblog.jp/21616613/)
ハイカラ文化史―⑥ 老舗の象徴―ドル箱(金庫)探しの旅―①旧斎藤家別邸
ハイカラ文化誌ー⑦ ドル箱探しの旅-②
ハイカラ文化誌ー⑧ 続・弗箱探しの旅-③
ハイカラ文化誌ー⑨ 続々・ドル箱ー④「江戸の遊び心に見る日本のものつくり」
今回、町屋の金庫探しの旅(なんだか怪しげなテーマですが?笑)、パートⅡは中央区上大川前通12番町の旧小澤家住宅で使われていた明治時代の金庫のお話です。
小澤家は明治初期、回船問屋として活躍していますが、現在は市の施設「北前船の時代館ー旧小澤家住宅」として公開され新潟の貴重な文化財です。旧小澤家住宅に入ると、入口受付の右の土間にこの金庫は置かれていますのですぐ見つかります。
本来、帳場があったところですから、置き場所はふさわしいようにも思われますが、これら金庫は一般的には蔵の中に納められていたようです。まず外観を見ていきましょう。
片開きの扉が付いた中型の金庫です。張り合わせた鉄板の中に濡れた山砂(ここの金庫は多摩川の川砂だそうです)が重しに入っていますのでこの大きさでもとても重く500キロはゆうにあるでしょう。
外は黒く塗られ、正面には金彩の枠が描かれていますが、これらは市に寄贈されてから後塗りされたもので、オリジナルの色ではありません。はたしてここまで再塗装する必要があったのか、文化財保護の対応として疑問が残ります?
①重厚な正面扉の上部にはエンブレム、パネルが張られています
②扉の中間には左にハンドルと右にイロハ回転錠があります。
③扉下部には錠穴とその上に錠穴のかくしパネルが張られています。
扉の上から順番に見ていきましょう。
①エンブレム・プレート扉の一番上に横長四角の厚い彫刻銘板が扉に止められています。右から左書き、次のようにあります
改正 東京銀座三丁目 金庫 六號
山田製造販売 火盗難 安全
プレートの中心に菊の御紋と「進歩」の文字のメダル、その左右に鳳凰のつがいのレリーフとマークの外側に桜模様をあしらった立派なプレートです。新品当時は金メッキで輝いていたものでしょう。
この真ん中に見える「進歩」の文字のメダルは山田金庫が明治14年、第二回内国勧業博覧会に出品して進歩三等賞を受賞した記念の証のメダルデザインです。
内国勧業博覧会とは明治新政府が富国強兵、殖産興業をスローガンに掲げて始めた、産業見本市で外国で流行していた万国博覧会の模倣でした。
第一回(明治10年)、第二回(明治14年)は上野公園で開かれた。(第二回3/1~6/30)
出品物には審査が行われ優れたものには賞が与えられた。
第二回の賞は順に名誉賞碑、進歩賞、妙技賞、有功賞、協賛賞と褒状があり、進歩賞は1等から3等まであった。
山田金庫は第二回内国博(明治14年)に三等進歩賞、第三回(明治23年)に二等有功賞、第四回(明治28年)に二等有功賞、東京府工芸品共進会(明治20年)に褒賞授与を金庫で受賞している。その受賞をプレートに誇らしげに刻んでいるのである。
中心の菊の紋章は国の博覧会認定の権威を象徴するものである。
メダルの左右の鳥の図柄は山田金庫の登録商標となっているつがいの鳳凰である。
六號とあるのは製品番号。
明治29年1月改正の山田金庫特別製造定価表(カタログ)には第二回~四回(明治14~28年)までの賞状が載っている。第二回内国博の賞状にはまだ「弗箱」の名前が見える、
この頃まではまだ「弗箱」の名前で「金庫」の名称が普及するのはこの後のことである。
下、明治29年山田金庫定価表より、登録商標と受賞賞状
山田金庫カタログ表紙 明治29年(山田金庫特別製造定価表)
下、第二回内国勧業博覧会 三等進歩賞 「弗箱」中北米吉、明治14年6月10日
下、東京府工芸共進会褒賞授与証「金庫」中北米吉、明治20年5月9日
下、第三回内国勧業博覧会二等有功賞「金庫」中北米吉、明治23年7月11日
下、第四回内国勧業博覧会二等有功賞「金庫」中北米吉、明治28年7月11日
下、特別製両扉開鎖略図、特別製片扉金庫開鎖略図(明治29年カタログより)
②、扉の中央の左に開閉ハンドル、右にイロハ回転錠が付いている
③、扉の下部に錠穴が付いていて、その上に錠穴かくしのプレートが乗っている。鍵穴隠しのプレートには同じく明治14年に内国博で受賞した進歩賞のメダルが刻まれている。
そして錠穴の周りには「東京 明治14年内国勧業博会」の文字が同じく見える。
明治29年のカタログの金庫には上部、かまぼこ型エンブレムプレートにはメダルが複数付いたデザインになってます、28年までの多数の受賞メダルを表しています。(明治14、20、23、28受賞メダル)この小澤家に残された金庫は明治9年銀座3丁目で開業した山田金庫が明治14年の内国勧業博覧会で受賞し名声と信頼を得て発展した頃(明治20年代)の遺品ではないでしょうか。
新潟の産業経済を引っ張った老舗・小澤家の歴史とその重みをずっしりと実感できる弗箱です。
下、第五回内国勧業博覧会(大阪)の二等賞碑メダル実物、明治36年
明治36年大阪で開かれた内国勧業博覧会の最後で最大の博覧会でした。
その時の受賞メダル。「二等賞碑、第五回内国勧業博覧会、明治36年」表は会場を表し、裏は紀元2563年の文字と各産業をモチーフとしたレリーフ図。
下、山田金庫定価表カタログより、東京銀座三丁目・山田金庫店舗と工場外観、並びに旧小澤家住宅蔵の金庫と同じ、カタログの六號金庫の定価表
カタログの六號金庫定価表
⇓ 片開第六號金庫 定価金75円
明治29年当時の75円とは一体どの位の価値でしょうか?当時のもりかけそばやうどんが一杯二銭とあります(東京)、今日一般的には500円と云うところでしょうか、してみると25000倍、75×25000=1,875,000(円)となりますね、とするとかなりのお宝です。火事が多かった時代には欠かせない経費だったのでしょうが、それにしても今の感覚以上に高級品ですね。
下、明治20年4月20日付山田金庫の評判を伝える読売新聞記事
〇弗箱の始業者
京橋区銀座三丁目の弗箱店、山田米吉が弗箱の製造販売に着目せしはいと古きことにして明治の初め始めて同品の舶来せしとみるよりたちまちその必要を感じ、一個を求めて元をときくずしその構造を細かくに実見の上種々に苦心し終に明治2年現品に勝る良品を製出したればこれにより一層心を励まし明治9年築地新湊町に弗箱の製造所を設け「山田金庫」と名付けて販売を始めたるにすこぶる評判よく明治14年の勧業博覧会に出品して進歩賞を得、現に当今上野にて開場したる工芸共進会に出品したる数個の金庫は皆約定済となりし程の好景気なるより中には商標の違ふたる同家製造外の品を山田金庫なりと云い欺くものもある由を聞き同家ではしきりに心配してるよし。
下、山田金庫新聞広告(読売新聞)
下、「農工用揚水機」新聞広告、同上
山田金庫工場内、喞筒製造所とあるように山田金庫は金庫関係の製造だけでなくこの様な手動ポンプや特許錠前も製造していた。喞筒(そくとう)とはポンプのことである。
明治20年4月26日付新聞広告明治26年1月1日付新聞広告
☆広告中に山田米吉、中北米吉と名前が違っているのは屋号が山田屋のため、山田米吉を名乗ったものと思われる。
下、新潟の山田金庫特約店、渋木倉造
明治29年カタログには新潟の特約販売店として本町通六番町の渋木倉造が載っている。同年の市内地図、「新潟市商業家明細図」に金物屋として確認できる。ここが販売したものでしょう。
下、カタログには全国の特約店の名前が載せられています。
各地方金庫販売店 新潟市本町通六番町 渋木倉造
⇓
下、新潟市商業家明細図、明治29年
本町6番町にカギ三屋号の金物商 渋木の名前が見える。
この様に、街歩きで見かけたものも、その歴史背景を通していろんな仕事や町の顔まで見えてきそうです。是非、いろんな好奇心をもって町を見回してみましょう、楽しい移り変わりが分かり、興味津々です。ただ先方の迷惑にならない程度にね?