江戸時代、新潟湊は海から入ってくる他国の船や信濃川、阿賀野川を下る舟などが集まり賑わっていた。川から入る舟を「川通りから入る」、海から入るものを「沖の口から入る」といった。船は年貢米を運ぶ回米船と商人たちが運ぶ回船があり、江戸中期以降は買い積回船と呼ばれる、船頭が各地の荷を売買するようになっていった。
湊には回船の船頭の宿となり、荷の売買の仲介をする回船問屋をはじめ、近在の米を売る農民の世話をする在宿、回船の積み荷や町蔵の荷を出し入れする小揚、それらを運ぶ艀船道など、湊にかかわる様々な人々によって新潟湊が成り立っていた。また商品が売買され無事出人港するまで多くの仕事が分担された。
出船、入船でにぎわった新潟湊であったが、元々河口の湊であったから、河口部に上流から土砂がたまり、河口海底に背と呼ばれる水深の浅いところが出来、その状態もよく変わった。
その為、湊に出入りする回船に水深を教え、安全に水路(水戸)を誘導するのが水戸教と呼ばれる水先案内人の仕事であった。
「みときょう」と呼ばれるが「みとおしえ」の方がその実態が分かりやすい呼び名でしょう。
下、回船問屋、清水芳蔵の正月用引札(チラシ)、明治26年石版印刷(錦港堂関甲次郎)湊のにぎわいと、左に三代目六角白灯台と水戸教、警戒信号塔、信号旗章一覧
水戸教の仕事は江戸時代半ばから伊藤家が世襲するようになり、当主は代々、仁太郎を名乗った。
水戸教のつめている小屋(仁太郎小屋)は河口近くにあり、回船問屋の手代が詰める下小屋と並んで建っていた。
回船が近づくと手代たちが通辞船という小舟(天渡船)に乗って向かい、入港を確認すると次に水戸教が停泊地まで誘導した。
新潟湊の水戸教は新潟湊に入る船だけでなく、沼垂へ入る船も誘導し、海難事故にも対応した。新潟湊の安全は水戸教の力が大きかったのである。
水戸教や、日和山などの名称は全国共通で川港には多かった。
下、先の三代目灯台に引用した回船問屋、西村治郎助、
木版引札より。正面に灯台、水戸教部分拡大水戸教の櫓と水戸深浅、信号旗用の竿が何本も立っている。右下に仁太郎小屋
下、明治初期鶏卵紙写真、「越後新潟港港口」水戸教の櫓明治3年3月、県は水戸教を廃止し、着色した樽を浮かべてそれを船路標識としたがうまくいかず、10月「水戸教兼、外国船出入注進番」に任命して水戸教を復活させた。
明治6年には回船問屋の株仲間廃止に伴って伊藤家個人の事業となったが、明治13年1月に県は「新潟港水路教導仮規則」を定めて水戸教を公的事業にした。
この頃の水戸教は日々、水深を測り日中は標識旗を立てた小舟を漂泊させたり、直接誘導したり、船見櫓の上に標識旗を掲げ出入りの可否や水路の方位を伝え海難救助もした。
この仕事は昭和4年、11代仁太郎が引退するまで続いた。
下、回船問屋 前田松太郎引札、木版、明治19年
左に水戸教櫓、中央に三代目白灯台、右に新潟税関
下、「新潟市実測図、明治24 年、印刷発行者小林二郎、編集者櫛谷国松」
新潟港口の地図、河口砂丘に灯台と警戒票の下が水戸教、その他には何もなかった
下、新潟市実測図拡大図、明治24年「上、白六角ー三代目灯台、下、警戒票(警戒信号掲揚塔ー仁太郎小屋)
下、新潟市実測図、明治24年より、河口砂丘地ー灯台と水戸教の位置関係
下、砂丘地、位置関係を示す写真、明治後期
左ー六角白灯台、右ー水戸教櫓と警戒標掲揚竿、右下、仁太郎小屋
下、新潟市実測図、明治24年より「新潟港深浅の旗號」
「船見臺の上にて小旗を振りたるは船舶入港する能わず」左に水戸教櫓、右に三代目六角白灯台
下、左の松林は水戸教です。昭和22年頃の写真、右が海に落ちた旧測候所です
水戸教の建物は火災で焼失、この砂丘も今は海の中。
水戸教跡には船舶監視所がおかれた。
参考文献:「新潟湊の繁栄」新潟市歴史双書―1,2003年新潟市刊