ネットで見たら今日は
江戸切子の日なんだそうです。
そこで大好きな切子のために、急遽日が変わらぬうちにアップすることにしました。
切子とはカットガラスのこと、江戸切子とは江戸で作られたカットガラスということです。、現代に連なる江戸時代からの伝統技術です。
まずネットでの趣旨説明から引用・・・
江戸切子の日
江戸切子の10数種類ある代表的なカットパターンの中に、魚の卵をモチーフにした魚子(ななこ)という文様がある。シンプルゆえに職人の技量が試される魚子(ななこ)を”7”と”5”と読む語呂合わせから、この日を記念日とした。江戸切子を手がける東京カットグラス工業協同組合が制定。技量にかける職人、「ななこ」という言葉の響き、夏の到来に切子の輝きが一服の清涼感・・・などの思いを込めている。震災・戦災ほか幾多の困難を経ても途絶える事が無かったこと、また文様や用途も身近な庶民の暮らしとともに発展していったこと等から「庶民の育てた文化」ともいわれている。
下、義矢満(ぎやまん)茶漬茶碗と書かれた木箱に入った切子(カットグラス)茶碗、江戸末期~明治初期、ナナコ(魚子)文様というより矢来文様か、江戸切子系より薩摩切子系と思われる
えどきりこ、さつまきりこ、ななこ、やらい・・・江戸の言葉のごろはたまらなく魅力的に耳に心地よく響きますね~?(笑)
昨今は冷暖房でガラスの響きも季節感が希薄になりましたが・・団扇や風鈴と並んでやはりガラスは夏が似合いますね~!
■ 江戸切子と薩摩切子
日本のガラスは弥生時代にはすでにガラス玉などがあったそうで、古墳時代にかけて祭器として管玉や勾玉、トンボ玉、釧などが造られていた。
起源は古いが器や容器としての国内ガラス生産は発展せず、江戸時代を待たなければならなかった。
早くからガラス工業がひらけていた西洋と違って、日本は陶磁器や漆器などが普及していたため、ガラス製品をそれほど必要としなかったという背景があった。
安土桃山時代、宣教師によって西洋ガラスが持ち込まれると、めがねレンズを含めてガラスの関心が深まった。
やがて長崎から入ったガラスは大阪から江戸へ伝わり、18世紀になると大阪江戸では小規模ながら各種の小型ガラスが普及し始めた。
しかしこれらは素地が悪く実用という名には程遠い、割れやすくもろい器でした。
そういった器としては不十分な壊れやすいガラスを消耗品として、割り切って使いこなした、江戸の遊び心や好奇心が日本のガラスを支えたといえる。
幕末になると薩摩では藩主・島津斉彬によって製薬瓶の開発から薩摩ガラスの製造が始まった。
やがて薩摩藩の殖産興業の一つとして集成館という工場群が設立され、そこで西洋式の分業による本格的なガラス工房が設けられた。
そこでは色着せのカットガラスが有名であるが、これは献上品に近い最高級品で、その他の多くは透明な吹ガラスやカットガラスが造られ、これらは一部市販もされた。
新潟湊の抜荷事件で名をはせた薩摩の船は、こういった内外のガラス製品も北前船ルートで運んだといわれている。
江戸ガラスと薩摩ガラスは一方が小規模な家内工房で他方は藩の御用窯という後ろたてを異にした。
江戸切子ガラスはその家内工業的規模からしても大型の器は作れず、小型の透明ガラスで、色着せガラスもできなかった。
大型ガラスのほとんどは薩摩系ではないかと言われる。
江戸時代のガラス素地は高鉛ガラスで、比重も3.4~3.6と大変大きく重い。
しかし、吹ガラスの場合、吹いた後の徐冷の技術が稚拙であったため、厚く大きな器は幕末まで作れませんでした。それで一般的には吹きガラスは小さく、厚さが紙のように薄く、比重が大きい割には手取りが大変軽いのが特徴です。
逆に厚さのあるカットガラスはその比重によりズシリと重さを痛感する、存在感あるものです。
ギヤマン、びーどろといわれた江戸時代のガラスは実用にならないといわれながら、薩摩ガラスの誕生により外国人からも驚かれる様な品質にまで発展しました。
しかし完成度の低さにも関わらず江戸時代のガラスは素地、形、色、重さ、音に至るまで、明治以降の現代ガラス(ソーダガラス)とはまったく世界の異なる魅力を秘めています。
それは現代では食器として許可されないような高鉛ガラスであることや、カットガラスでは手彫りと呼ばれるグラインダーなどの回転切削工具を使わない手法にあります。金属やすりを使って、手で仕上げるという気の遠くなるような手わざによるものです。(薩摩切子はグラインダーを使ったという説もあり)
日本の吹きガラスやカットガラスは技術的制約がゆえに又特別に個性的で日本的な魅力を備えています。
それらの面白さや美しさは江戸の遊び心の代表ともいえるでしょう。
こういった江戸の人々の絶妙なスタンスは、現在にも引き継がれた日本人らしさのルーツと言えるでしょう?
下、江戸ガラスの粋と技 藍色水注と脚付盃、江戸末期