ついこの間まで雪山だった風景も衣替えです。
爽やかな季節、夕暮れの西大畑、
旧齋藤家別邸では「夕暮れトーク」の新シリーズが始まりました。
暮れゆく庭を感じながらの講演会はなかなかおつなものです。
講師は旧齋藤家別邸のディレクタ―・
横木剛氏です。
第一回目の演題は「鈴木長蔵の文明開化」でした。
幕末から明治へと大きく変貌を遂げる新潟町にあって、商人として新潟町の近代化を牽引した第一人者のお話です。
鈴木長蔵は少しづつ知られるようになりましたがまだまだ顕彰の必要がある魅力的な人物です。
横木氏はパワーポイントを使って当時の現物資料を交えながら時代背景を含めて分かりやすく解説してくれて大好評でした。その一端をご紹介しましょう。
■ 鈴木長蔵 (1846~1909)
鈴木長蔵は新潟町で代々、小川屋という廻船問屋を営む旧家の生まれである。(弘化3年・1846)
周蔵と称した幼名の頃から儒学を学び「新潟の生き歴史」と言われたほど博覧強記であった。
維新と共に家業の廻船問屋は大きな転機を迎えると早速、新潟開港にあたり開港用掛を買って出て、その後混乱している新潟町の年寄格・検断となった。
明治5年父を亡くし家業を継ぎ市中の三人の戸長となった。
そんな頃明治政府でも開明派と言われた楠本正隆県令が新潟へ赴任してきた。
楠本は鈴木長蔵を信頼し、意見を求めて、町政改革を断行していった。
荒川太二らと問屋会社を解散して50両を得て、それをもとに日本郵船に投資して、新潟ー東京間航路を開く。
また、信濃川に川汽船を就航させ、新潟―長岡間航路を齋藤喜十郎、桜井勘蔵らと始めた。
また本間新作らと第四国立銀行(後の新潟銀行)を設立し、町の商業近代化をはかるため、後の商工会議所である「北越興商会」の発足とその初代会長に就任した。
そして、その付属の商業学校(後の県立商業高校)を開校して、商業人の学問の必要性を訴えた。
区会・市会議員、県会議員を務め、新潟市長を8年、そして初代商業会議所の議長となった。
一方で新潟新聞や東北日報などの新聞社も経営した。
新潟物産株式会社の設立にあたってはウラジオストックとの交易をめざしたという。
晩年は衆議院議員に当選するとともに文化人としても名をなした。
港町新潟は商業の町であるとともに県庁所在地であった。
鈴木長蔵は政治と経済が混在した町でその両方をうまく調整できる数少ない人材の一人でした。
新潟一の経世家といわれ、その経世の基本は「商人は学べ」という教訓を実践した新潟商人のプライドにあったという。