日本海側の拠点国際空港としてその存在感を増している新潟空港の開設は昭和4年にさかのぼります。(新潟飛行場)
昭和4年8月15日、朝日新聞社の郵便機の定期航空便がその始まりです。
飛行場はちょうどその時期に架け替えられた3代目の萬代橋の足元の信濃川中州、萬代島に急造したものでした。
郵便機は週3便飛んだが、萬代島飛行場は葦原を簡単にならしただけの即席飛行場だった。
その為陸続きでなく、地盤も悪く事故などが起こり僅か十数日で焼島潟埋立地(現在の榎町付近)に出来た沼垂飛行場に移された。
本格的な飛行場の必要を痛感した新潟市は翌5年、松ヶ崎浜村から阿賀野川左岸河口、砂州五万坪を無償で借り、市営飛行場を建設、9月から供用開始した。
下は開航式当日記念飛行をした中蒲原金津村(現新津)出身の酒井憲次郎のサルムソン複葉機と竣工した萬代橋、昭和4年8月
下、新旧萬代橋、昭和4年
朝日新聞はその後昭和10年10月に撤退、11年10月10日から国策会社、日本航空輸送が1日1便の旅客定期便を始めた。
フォッカ―スーパーユニバーサル機は6人乗りで急行列車で7時間半かかった陸路を新潟―羽田間、約2時間で結ぶ高速交通時代の幕開けでした。
料金は汽車の4倍の20円もしたが、乗客は航空券を一手販売した齋藤喜十郎の新潟エキスプレスの東堀7番町の本店前からハイヤーで飛行場まで送迎したという。
下は羽田空港の中島フォッカ―スーパーユニバーサル機と砂丘を削った新潟飛行場、格納庫の前にフォッカ―機が見える。昭和11年10月~12年6月頃
■ 中島フォッカースーパーユニバーサル
オランダの航空機メーカーであるフォッカーの創立者であるアントニー・フォッカーは、1922年にアメリカ合衆国に移住し、1923年にはアトランティック・エアクラフト・コーポレーション・オブ・アメリカ(AAC)を設立した。AACは、実質フォッカー社の北アメリカ支社ともいえる企業で、ニュージャージー州のテターボロ空港を拠点に航空機製作を開始した。1926年に、AACは初の自社開発機としてフォッカー ユニバーサルを初飛行させた。ユニバーサルは、燃料タンクを内蔵した高翼単葉の木製主翼に、開放式の操縦席を持ち、双フロート式の水上旅客機としても運用が可能であった。ユニバーサルはオランダのフォッカー本社でもフォッカー F.XIの名で生産されたが、旅客がわずか4名だけであったため、本機の拡大・改良型が求められた。改良型は1928年3月に初飛行し、スーパーユニバーサルの名で生産が開始された。
スーパーユニバーサルを最も多く生産し、運用したのは日本であった。日本では1929年7月15日に日本航空輸送が東京-大阪-福岡間の定期旅客輸送を開始したが、その際の主力として投入されたのがスーパーユニバーサルであった。日本航空輸送は最大25機のスーパーユニバーサルを保有し、オランダのフォッカー社が製造したフォッカー F.VIIと共に創設期の日本航空輸送の主力として活躍し、双フロートを装備した水上機として福岡-蔚山-京城-平壌-大連にまで拡大した国際航路にも投入された。1931年には中島飛行機がライセンス生産を開始し、日本航空輸送で運用されたほか、大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍双方が制式採用した。(ウィキぺディアより)
緒元ー出典:『日本の名機100選』
全長:11.09 m
全幅:15.43 m
翼面積:34.4 m2
翼面荷重:78.5 kg/m2
自重:1,720 kg
総重量:2,700 kg
エンジン:1 × P&W ワスプB空冷星型9気筒エンジン450馬力
中島飛行機でライセンス生産された機体は中島/ブリストル ジュピター空冷星型9気筒 450馬力、後に中島 寿2型空冷星型9気筒 460馬力
最大速度:248 km/h
航続時間:5 時間
上昇限度:6,000 m
乗員:操縦士 - 2 名 + 乗客 - 6 名(または4名分の座席とベッド、患者輸送機は医官・看護員各1名と患者3名)
下は齋藤喜十郎家の動画資料より貴重な映像、新潟飛行場のフォッカ―スーパーユニバーサル機、昭和11~12年 (旧齋藤家別邸提供)
下は、昭和4年航空郵便開始記念絵葉書、当時の旅客便は機体を軽くするため藤の椅子が使われていました。
下は昭和11年10月1日の記念印が押された「新設航空郵便線路開始記念」ハガキ、風景印には日本航空輸送のフォッカ―スーパーユニバーサル機と開設された路線が入っている。
新潟ー東京
昭和14年4月新潟飛行場は国営となり、30万坪に拡張されたが戦火と共に定期便は廃止。16年に逓信省の航空機乗員養成所となり、その後陸軍飛行場に徴用され、現在のA滑走路になる1200x30mのコンクリート舗装滑走路が建設されました。
戦後は進駐してきた米軍により接収され、米軍基地となり滑走路も1829x45mに延長、拡幅され、並行誘導路も新設された。
(この滑走路は昭和33年に返還になって、昭和38年にB滑走路が出来た時に安全上の理由から1314mに短縮されてしまった)
この基地は朝鮮戦争などの影響もあり、その後拡張の計画が発表され、大きな反対運動が起こり、米軍戦略の変更ももあり昭和33年3月31日、日本に返還されました。
下は昭和33年返還当時の米軍基地の状態そのままの新潟飛行場航空写真
右の滑走路が現在のA滑走路(当時1829x45m)、左が誘導路、上のクランク、櫛歯状の誘導路は戦闘機の駐機場でした。