湊にいがた雛人形町めぐりも終わりを迎えましたが、3月3日と決まった「雛まつり」も明治の改暦により、暦が1カ月ほど早くなった関係で、田舎では月遅れの今まで通りの季節の節句が慣例となったのです。
前にも書いたように近代化を急いだ明治の新政府はそれまでの旧暦(太陰太陽暦)を新暦(グレゴリオ太陽暦)に改めました。
http://hikarataro.exblog.jp/14515453/ 「明治5年の消えた師走」それは明治5年12月3日を明治6年1月1日とすべく、一か月前に詔勅で急に決めてしまったのです。
財政難の新政府にとって2カ月分の給料を浮かせる究極の裏ワザ?でした。
急に師走がなくなって正月が来たのですから、その庶民の混乱ぶりも伺えようというものです。
同じく発せられた「五節句廃止令」は雛人形製作者にとっても晴天の霹靂でした。混乱した世相の中で雛人形も大きな影響を受けた時代でした。
現在も旧暦は我々の生活に根強く生きているように、農耕民族には旧暦はなくてはならない生活のリズムだったのです。
月遅れという生活のリズムがいまだに生きているのは明治の改暦の名残なのです。
「湊にいがた雛人形展」-拾遺■ 「貝桶」-貝合わせ 婚礼道具ー源氏絵大型貝桶、江戸後期
婚礼の時持参する調度の中で特に重要な品として大切に扱われたのは貝桶です。
もちろん雛道具にも貝桶があって中には小さい蛤貝が入ってます。
貝桶は婚礼の日、行列では花嫁より先に行き、受け渡しの儀式までありました。
明和(1764~71)の頃には武家や民間でもこの儀式がおこなわれています。
貝桶が無事に相手側に納められたと言えばめでたく結婚が成立したという意味に使われたほど重要な役目でした。貝桶が特に大切にされたのは、すべての蛤貝が左右同じ大きさで、同じ斑文の模様が左右合致してほかの貝とは決して合わないという事から、夫婦和合のシンボルとしての意味を持つからでした。
貝桶は一対で、中には蛤貝を2つに分けて、左貝と右貝を別々に入れてあります。貝の内側には左右同じ絵柄で色絵具や金箔、金泥が使われ、源氏物語や花鳥風月などが描いてあります。貝合わせの遊び道具でもあり、遊び方はトランプの神経衰弱に似た遊びで、伏せてある貝から相手を探すゲームです。
展示の貝桶は源氏物語の絵巻が胡粉で盛り上げられた下地に大和絵で豪華絢爛に描かれています。
これだけ大きく豪華な貝桶は珍しいものです。
■ 雛道具ー櫓時計(和時計)江戸後期全長13cmの櫓時計です、これは江戸時代の雛道具です。(機械は入っていません、ミニチュア模型です)
古くからお雛様には色んなミニチュアサイズの蒔絵模様の雛道具が付いていますが、事・・時計になると余り数は残っていません。 というのも町方の雛道具には見られず、大名家に関わる雛道具にのみ限定的に使われたようです。
大名時計といわれた時計の歴史にも関係有るようですね。
徳川美術館の雛道具とか某大名家から嫁いだ姫の雛道具とかに限定的に見られる珍しく、可愛い櫓時計のミニチュア模型です。
桐外箱に時計二つ・・と書かれているように雛道具は本来ペアで使われた物ですからもう一個どこかにあるはずです。 文字盤には十二支の干支の他、内側に東西南北とあり、これを作った雛道具職人は時計の事を知らず、 磁石と勘違いして文字盤を作っているところがまた、時代を感じて面白いですね。
ある意味、和時計の実物より珍しいかも知れません。
古時計のサイト「タイムキーパー古時計どっとコム」にも掲載されています。↓
古時計情報満載の
「タイムキーパー」応援しています。覗いてみてください。
http://www.kodokei.com/ot_023_2.html#sec02 「タイムキーパー古時計どっとコム」