上、大すみ源助(江戸浅草茅町二丁目)、引札(カタログ)江戸末期、木版
江戸末期になると各種の時計が一部普及していたことが引札(カタログ)からもうかがえます。有名なところでは坂本龍馬の桂浜の銅像のモデルとなった長崎で撮った有名な「懐手をした写真」では懐手の手の中には懐中時計が握られている・・と言うのが最近の説です。
戊辰戦争においても長岡藩の河井継之助は懐中時計を使っていたと言われ、両軍とも戦争で西洋時計が使われた最初かもしれません。
河井はガトリング砲を購入した横浜のスイス商館(ファーブルブラント商会)に居候したほど親しくしていたようです。ファーブルは時計輸入商館としても有名でしたから当然懐中時計も入手していたでしょう。
上は幕末の江戸浅草、大隅源助の引札ですが懐中時計が根附時計と言う名前でオルゴールなどと一緒に載っています。この頃になると色んな舶来品が流入してる様子がうかがえます。
しかし、当時の日本は陰暦の不定時法を採用していましたので引札にも有るような和時計の櫓時計や尺時計が時計として一般的でした。
これすらある程度の知識が無いと使いこなせない代物で、一品製作の和時計は高価でもあり普及は今一歩でした。
同じ引札に外国製の懐中時計が堂々と載って市販されている事も驚きです。欧米では太陽暦の定時法で時計が作られていて、これらの仕組みを理解しないとこれも時刻制度の違う日本では使いこなせない厄介な代物でした。
これは船乗りにとっても同様な事で和時計は高価なうえに錘の重さで機械を動かすもので不安定な船上には不向きなものでした。
かといって最新式の懐中時計はその使い方も時刻も日本にはなじみのないもので、結局こういった西洋時計が船乗りに普及するのは明治6年の明治の改暦(一日を24時間とした現在の時刻制度を採用=太陽暦)以降の事でした。下の明治初期の大隅源助の引札には和時計の尺時計などと共に米国製の輸入八角時計が載ってきます。この小型八角時計は明治初期、一番早くから輸入された掛時計の一つで、明治7年駅逓寮(郵便局)が業務用の掛時計として全国の郵便取扱所に配って普及のきっかけを作りました。
また、この八角時計は機械の特徴から振り子を使わないため、傾いても、揺れても時計の性能に影響を及ぼさない便利な時計でした。
そのため鉄道や船にも使われ始め、船時計などと呼ばれたりしました。
結局、江戸の和船には機械時計は使われず簡単な砂時計や日時計のようなものが使われたのではないかと思われます。明治以降に安価な八角掛時計が郵便局、学校、役所などで使われるようになると和船にも徐々に普及するようになります。
下は明治初期の大隅源助の引札(カタログ)です。
和時計(尺時計)と並んで根附時計や双眼鏡、八角時計が見えますがこれらは輸入品です。
上、大隅 源助 引札(カタログ)木版、明治初期 上、米国製八角時計(一日捲き)左ー駅逓寮(郵便局)で使用の八角時計
右ー一般的な小型八角時計、高さ22cm