時計塔は街のランドマークだったー長岡北越新報社時計塔と新潟郵便局、新潟市公会堂時計塔近年、からくり付きの街頭大時計が人気を集め全国的にブームを起こしています。からくり付きの塔時計の歴史は古く、ヨーロッパに於いては14世紀の機械大時計の発明と共に出現しています。日本においても明治維新と共に塔時計が文明開化、近代化のシンボルとして輸入されブームを起こした時期が有りました。これら明治初期の塔時計の機械は横浜のファーブルブラントなどの外国商館により輸入され新しく建築された洋館はもとより蔵作りの和風建築にも塔時計が取り付けられ新しい時代のシンボルとなって、人々の生活の町の格好の道しるべとしても人気が有りました。やがて都会でブームになった時計塔は、その影響を次第に地方にまで広げていきます。
越後で有名だった時計塔は明治42年に竣工した長岡市の北越新報社屋の時計塔です。日本の時計塔は東京などの都会を中心に発展してきましたが、時代の流れにより文明開化のシンボルとして地方にもその影響が及んでいます。明治40年4月地方紙の越佐新聞と長岡日報の両社が合併して
「北越新報」を発刊。明治42年、坂之上二丁目に新社屋を建て、屋上に時計塔を設け、長岡名物になりました。
木造3階建の洋館でこのような本格的な4面時計塔は地方では珍しく新潟県内ではここだけですが余り知られていません。都会ではすでに時代遅れとなったスタイルの時計塔ですがこの北越新報社の時計塔は東京の時計塔を思わせるクラシカルな時計塔で鐘塔が有る所から鐘が鳴ったものでしょう。
古い時計塔のスタイルですので、機械は電気時計ではなくそれまでの一般的な重錘引きの機械ではなかったかと思いますが詳細は不明です。
長岡は豪雪地帯としても有名で、近年は温暖化の影響で昔ほどではなくなりましたが、昭和20年には積雪2m95cmを記録したほどです。
雪を被った時計塔は都会では見れぬ風情で、近景の土蔵と大雪、雪中の子供らの騎馬戦も面白いですね。 乾電池や電気時計の発明で有名な屋井先蔵や鶴巻時計店英工舎の創業者、鶴巻栄松の郷里としてこの時計塔もつながりがあるかのように輝いています。
北越新報社はその後、第二次世界大戦に入り言論、用紙統制のため「1県1紙」の国策のもとに、新潟日報に統合されました。
明治後期↓下、大正~昭和初期下、右ー北越新報社、左ー市役所、昭和初期
新潟市公会堂時計塔ー昭和13年~昭和39年新潟市公会堂は篤志家、新津恒吉翁の50万円の寄付により昭和13年に竣工した。
新津恒吉翁は三島出雲崎の出身で製油業で一代で財を築いた、現在の丸新グループの創業者です。(現在の旭町、新津記念館として有名です)公会堂は展望時計塔の付いた、三階建のモダンなアールデコ建築で、高塔を配した一面の巨大な電気時計は当時全国二番目に大きな時計であった。公会堂に展示された日本画、洋画は200点を越え、美術館さながらの文化の殿堂であった。戦火、大火から免れ、半世紀余の風雪に耐え、戦後は一時進駐軍の新潟軍政部として接収され、また大火により臨時の市役所の役割も果たしたが、昭和39年の新潟地震では大時計も1時1分を指して止まってしまった。その後時計は撤去されてのっぺらぼうな文字板が寂しいものでした。
平成6年12月には老朽化により閉鎖、取り壊され、平成10年跡地に「新潟市民芸術文化会館」が完成。壊すには大変おしい新潟のランドマークであった。
戦前の公会堂↓下、昭和13年5月15日新潟毎日新聞記事下、昭和20年代後半下、昭和33年下、昭和37年、木製昭和橋(2代目)と公会堂、右に白山の庭球場が見える。
橋の上流に橋脚が見えるので昭和大橋の工事が始まっていることが分かる。
下、新潟郵便局 時計塔
https://hikarataro.exblog.jp/18189800/ 新潟にもあった!町のランドマーク=明治の「時計塔」