「新潟雪子」のお菓子の誕生土曜日の新聞紙上で既報のように、中央区古町3番町の菓子舗「金巻屋」さんが渾身の新作菓子「新潟雪子」を完成させました。
そのあらましをご紹介します。
今年の春、恒例の「湊にいがた雛人形町めぐり」で開催施設の一つである、新潟空港でも雛人形展示が行われました。その時、広いロビーに併催する形で「青い目の人形と新潟雪子」の話が一緒に企画展示されました。
それまでの地元の古い雛人形を探す旅の中でこの昭和初期の日米の人形交流の歴史的経緯を知りました。
平和の中で節句行事を祝える現在の境遇で、この史実は心にとげの様に引っかかる部分でした。そのような気持ちから「青い目の人形と新潟雪子」の企画展を併催しました。
それを同じく雛人形展の開催施設である金巻屋さんがご覧になって感銘を受けて、雪子の気持ちをお菓子に込めて、新作菓子に挑戦して下さいました。
心を込めて作られたお菓子は雪子の着物の色を表した紅色と中に雪輪の白い羊羹の入ったゼリー菓子です。亀田産の藤五郎梅の酸味が爽やかな素晴らしい味に仕上がりました。
金巻さんのご努力に感謝したいです。
新潟雪子の話はもうほとんどの人に忘れ去られた記憶です、しかし伝えていきたい記憶でもあります。
耳で聞いた話は忘れられがちです。舌で味わう、五感にうったえるお菓子は心にしみて来るのではないでしょうか?
これをきっかけに雪子の発見につながることを期待したいです。
現在、長岡の県立歴史博物館で
「お菓子と新潟」の企画展が好評開催中です。
新潟雪子も仲間に入れてもらいました。
この企画展を見ると、新潟は有数な菓子之国であることがよく分かります。
「新潟雪子」によって新たな菓子の歴史が刻まれたことを喜びたいです。
上、昭和2年10月1日 新潟新聞昭和2年、当時色々な紛争から険悪になっていた日米関係を心配して、子供たちの交流で改善しようとアメリカの子供たちから12000体余の友情人形(フレンドシップドール)という青い目の人形が日本へ贈られてきました。(その内新潟県へは418体) この事はアメリカ人宣教師シドニー・ギュ-リック博士らによって行われたもので、全国各地で盛大な歓迎会が開かれ、青い目の人形は大歓迎を受けました。
日本では国際児童親善会(渋沢栄一)の呼びかけで、このお礼に各都道府県と主要都市の代表として58体の市松人形が答礼人形として海を渡っていきました。
この人形は全米各地で市民の大歓迎を受け、その後各地で保管展示されました。
しかしその後の太平洋戦争により、青い目の人形たちは敵国人形として多くは燃やされたりして処分されました。
このように大歓迎から一転、敵国人形にいたる境遇の変化や自然災害などにより失われた青い眼の人形や答礼人形もありますが、現在国内で331体の青い目の人形と47体の答礼人形が米国で保管されています。(新潟県に残された青い目の人形は418体の内12体)
従来、新潟県から贈られた答礼人形(市松人形・新潟雪子)はコロラド州デンバーの公立図書館に保管されていると思われてきました。しかし、里帰り展の折、その着衣などからミス横浜(浜子)であることが判明しました。
折角の人形交流もその後の戦争という過酷な歴史に翻弄された平和の使者・新潟雪子の行方が気になります。
この度、菓子匠・美豆伎庵 金巻屋さんがそんな雪子の想いをお菓子として再現してくれました。これが平和の意味を考えるきっかけになれば幸いです。
http://hikarataro.exblog.jp/14568892/ 「新潟雪子を知ってますか?」
http://hikarataro.exblog.jp/20774874/ 「青い目の人形と新潟雪子ー①」http://hikarataro.exblog.jp/20802862/ 「青い目の人形と新潟雪子ー②」
ネットで見たら今日は
江戸切子の日なんだそうです。
そこで大好きな切子のために、急遽日が変わらぬうちにアップすることにしました。
切子とはカットガラスのこと、江戸切子とは江戸で作られたカットガラスということです。、現代に連なる江戸時代からの伝統技術です。
まずネットでの趣旨説明から引用・・・
江戸切子の日
江戸切子の10数種類ある代表的なカットパターンの中に、魚の卵をモチーフにした魚子(ななこ)という文様がある。シンプルゆえに職人の技量が試される魚子(ななこ)を”7”と”5”と読む語呂合わせから、この日を記念日とした。江戸切子を手がける東京カットグラス工業協同組合が制定。技量にかける職人、「ななこ」という言葉の響き、夏の到来に切子の輝きが一服の清涼感・・・などの思いを込めている。震災・戦災ほか幾多の困難を経ても途絶える事が無かったこと、また文様や用途も身近な庶民の暮らしとともに発展していったこと等から「庶民の育てた文化」ともいわれている。
下、義矢満(ぎやまん)茶漬茶碗と書かれた木箱に入った切子(カットグラス)茶碗、江戸末期~明治初期、ナナコ(魚子)文様というより矢来文様か、江戸切子系より薩摩切子系と思われる
えどきりこ、さつまきりこ、ななこ、やらい・・・江戸の言葉のごろはたまらなく魅力的に耳に心地よく響きますね~?(笑)
昨今は冷暖房でガラスの響きも季節感が希薄になりましたが・・団扇や風鈴と並んでやはりガラスは夏が似合いますね~!
■ 江戸切子と薩摩切子
日本のガラスは弥生時代にはすでにガラス玉などがあったそうで、古墳時代にかけて祭器として管玉や勾玉、トンボ玉、釧などが造られていた。
起源は古いが器や容器としての国内ガラス生産は発展せず、江戸時代を待たなければならなかった。
早くからガラス工業がひらけていた西洋と違って、日本は陶磁器や漆器などが普及していたため、ガラス製品をそれほど必要としなかったという背景があった。
安土桃山時代、宣教師によって西洋ガラスが持ち込まれると、めがねレンズを含めてガラスの関心が深まった。
やがて長崎から入ったガラスは大阪から江戸へ伝わり、18世紀になると大阪江戸では小規模ながら各種の小型ガラスが普及し始めた。
しかしこれらは素地が悪く実用という名には程遠い、割れやすくもろい器でした。
そういった器としては不十分な壊れやすいガラスを消耗品として、割り切って使いこなした、江戸の遊び心や好奇心が日本のガラスを支えたといえる。
幕末になると薩摩では藩主・島津斉彬によって製薬瓶の開発から薩摩ガラスの製造が始まった。
やがて薩摩藩の殖産興業の一つとして集成館という工場群が設立され、そこで西洋式の分業による本格的なガラス工房が設けられた。
そこでは色着せのカットガラスが有名であるが、これは献上品に近い最高級品で、その他の多くは透明な吹ガラスやカットガラスが造られ、これらは一部市販もされた。
新潟湊の抜荷事件で名をはせた薩摩の船は、こういった内外のガラス製品も北前船ルートで運んだといわれている。
江戸ガラスと薩摩ガラスは一方が小規模な家内工房で他方は藩の御用窯という後ろたてを異にした。
江戸切子ガラスはその家内工業的規模からしても大型の器は作れず、小型の透明ガラスで、色着せガラスもできなかった。
大型ガラスのほとんどは薩摩系ではないかと言われる。
江戸時代のガラス素地は高鉛ガラスで、比重も3.4~3.6と大変大きく重い。
しかし、吹ガラスの場合、吹いた後の徐冷の技術が稚拙であったため、厚く大きな器は幕末まで作れませんでした。それで一般的には吹きガラスは小さく、厚さが紙のように薄く、比重が大きい割には手取りが大変軽いのが特徴です。
逆に厚さのあるカットガラスはその比重によりズシリと重さを痛感する、存在感あるものです。
ギヤマン、びーどろといわれた江戸時代のガラスは実用にならないといわれながら、薩摩ガラスの誕生により外国人からも驚かれる様な品質にまで発展しました。
しかし完成度の低さにも関わらず江戸時代のガラスは素地、形、色、重さ、音に至るまで、明治以降の現代ガラス(ソーダガラス)とはまったく世界の異なる魅力を秘めています。
それは現代では食器として許可されないような高鉛ガラスであることや、カットガラスでは手彫りと呼ばれるグラインダーなどの回転切削工具を使わない手法にあります。金属やすりを使って、手で仕上げるという気の遠くなるような手わざによるものです。(薩摩切子はグラインダーを使ったという説もあり)
日本の吹きガラスやカットガラスは技術的制約がゆえに又特別に個性的で日本的な魅力を備えています。
それらの面白さや美しさは江戸の遊び心の代表ともいえるでしょう。
こういった江戸の人々の絶妙なスタンスは、現在にも引き継がれた日本人らしさのルーツと言えるでしょう?
下、江戸ガラスの粋と技 藍色水注と脚付盃、江戸末期
上、大正頃の絵葉書より
日時計
「古代暦の制定と同時に時を計る道具が考案されたものです。
しかして日時計は天体を基礎として居りますゆえ、もっとも安全で永く用いられて居るものであります。
上図は「ボルネオ」土人が原始時代の方法で時を計って居る図であります。
上は最も進化した近代の日時計であります。」
日に日に、日差しが強くなって夏近しを感じさせます。
先日、中央区関屋浜にある「平面日時計」を紹介しましたので、その続編です。
影のある人・・・・というと何か、怪しげな魅力的な響きがありますが・・・?
日陰それ自身が意味を持つということは余りないのですが、一つ大きな役割を果たしてきました。
それが日時計です。
太古から日時計は太陽の恵みである光と影を有効に時刻として活用して来ました。
下は現在も活用されている平面日時計です。(関屋浜)
平面型日時計
この日時計は、平面型の文字板の中央に位置する針(ノーモン)の影で大まかな時間を読み採るものです。
季節により影の動きが微妙に変わるので、針(ノーモン)の影の示す時間に下図の均時差表の示す時間をたすと、より正確な時間を知ることができます。
日時計の示す時刻は、設置場所の時刻であるが、日本国内ではこれを日本標準時(明石時刻)に調整する必要がある。日本標準時との差は、設置者が計算しなければならない。5°ごとに20分の差が生じるので、たとえば明石から東へ5°離れた東京では、日時計の時刻から20分を減ずる。固定式日時計では、この差は均時差表の中に組み入れるか、文字盤の時刻をずらすことにより修正する。ただし文字盤の表示をずらす方式は、真ん中が12時ちょうどにならず美しくない。
日本の時の記念日の起源となった日本書紀に書かれた天智天皇の水時計の話は有名ですが、古くは世界的には日時計がメジャーであったようです。
古今東西、人間が時間に縛られるようになったのは神仏によるおつとめの時間管理の必要に迫られて時計などが発明され発展したのがルーツです。(14世紀、修道院や教会の時計塔)
それよりも早く一番原始的で簡単に利用されてきたものが日時計です。
昼しか用を成しませんがそれでもいろんな場所で活躍してきました。
特に機械時計(和時計)が現れた江戸時代においても高価で管理の難しい機械時計より手軽で安い日時計はそれなりに評価され、江戸後期より庶民にも普及していました。
西洋においては機械時計(塔時計)と共に建物の壁面に取り付ける垂直型日時計も良く見られます。
しかし日本では建築構造の問題と、江戸時代には世界的な銅生産国であったため、全国津々浦々に「時の鐘」を突いた寺の梵鐘が普及していたので、日本では垂直型の日時計は見られません。
又その「時の鐘」の時刻確認には香時計が使われ、香の燃える速度で時を計ったといわれています。
構造の簡単な香時計は機械時計よりも取り扱いやすく時間もむしろ正確であったそうです。
下、現在「ギャラリー蔵織」にて展示運転中の右・江戸時代の和時計と左が香時計
幕末~明治になると掛時計や懐中時計などが入ってきますが、高価で簡単には使えませんでした。
そこで、江戸時代、商売や旅の共として重宝されたのが携帯用日時計でした。
さすが日本人と思えるような各種のアイデア日時計が作られていますのでご紹介しましょう。
下、江戸後期~末期、江戸浅草茅町二丁目 大隅源助商店の当時の引札カタログです。
機械時計から、眼鏡、日時計、寒暖計、遠眼鏡、磁石、無尽灯、レンズの付いた行灯(夜学灯)、顕微鏡、測量器具機械などの国産品から、オルゴールや懐中時計(根付時計、袂時計)などの輸入品まで、当時かなりの品々が揃っていることが分かる。
①紙製日時計ー江戸時代後期、15x20.5cm
江戸後期になると伊勢参りなどの一大旅行ブームが起こります。
そんな旅行に便利で簡単な、いかにも日本的なすぐれ旅グッズがあります。
それがこの携帯用紙製日時計です。
旅行ガイドブックなようなものに付録として付いていることも多く、同時代のシーボルトの日記にも同様な紙製日時計の記述があります。
写真のように季節に合わせた短冊状の紙片(紙こより)を立てて太陽に向けてその影の先端の長さの時刻の数字を読んでおおよその それぞれの土地の視太陽時を知るというものです。ちなみに影の先端が「九」のところに行くと正午です。 不定時法では一日を12に分けてまたその1刻(いっとき)を四分割して、1刻の真ん中を正刻と呼びます。 それで九ツ、午の刻(11~13時)の真ん中、午の正刻が「しょうご : 正午」です。
おやつ(8つ)も旧時刻の名残ですね。
漢数字は江戸期の時刻表示です。日本は東西に伸びていますが緯度にそれほど差がなく、このような日時計で結構役に立ったようです。 また潮の満ち引や運勢などの吉凶占いが載っていて興味深い。
② 旅行用算盤付携帯用日時計 幕末~明治、5.7x17.8cm
開け~ごま!右側の蓋二つを開けると・・・・墨つぼと日時計、磁石が出てきます。
「道中所持すべき物、懐中物の他、成丈事少なるたけことすくなにすべし。 品数多ければ失念物等有て、かえって煩わしきものなり。」
文化七年(1810)刊の「旅行用心集」には、このようにあり、江戸時代の旅は歩きが基本であったため、 身軽な旅支度が必要であったことがわかります。そんな時代のアイデア品です。
商人の旅に必要な携帯用小算盤こそろばんに日時計が一緒になったもので、 算盤の右に墨壷と日時計が組み込まれています。算盤の底には引き出しが有ります。 引き出しの中は残念ながら今は空ですが、旅の携行品(尺度、小筆、耳掻、毛抜など)が入っていたと考えられます。
③ 折りたたみ式携帯「懐中日時計」 明治初期~中期、紙製、木版墨摺り(たとう14.5x7.5cm、開き15x14cm)
懐中日時計と木版で書かれた題箋付きの柿渋紙のたとうに入った折りたたみ式の紙製日時計です。
外袋(たとう)の横から引き出して二つ折りになっている渋紙で補強された和紙を開くと日時計の盤面が出てきます。 木製(桐)のノモンは台紙に貼ってあり、同封された枕木(保持板)をはさんで自立させます。 真鍮製の小型磁石が入っていて間にはさんで南北を合わせます。
盤面文字板には
「此ノヰ方ハ日ノ當ル所ヘ出シ定規ヘ枕木ヲハサミ磁石ヲ南北ノ線ニ水置スル時ハ定規ノ影ノ當ル所ハ即チ 其時刻ナリ」
とあり、また欄外には
「余ノ日時計ヲ工夫スル数年始メテ○良器ヲ発明セシ○公衆ノ称賛ヲ得タリ依テ勧メニヨリ之レヲ発売スルニ至レリ 指南舎」 ・・・・
と書かれています。
このような簡便な日時計は各種あったようです。 時計に縁の無かった人たちはこの様なもので新しい時刻制度の到来と時計を 感じていたのでしょう。
④ 丸型携帯用日時計「軽便日時計」 明治時代以降、径6cm
最も普及した明治時代以降のタイプの日時計です。
紙箱の取り扱い説明には次のように書いてあります。
下、桐のケース、径6cm
下、蓋を開けると文字板とノモン(針)が出てきます。
下、ノモン(針)を立てて組み立てます、南北をコンパスで合わせて影を読みます。
下、蓋の裏にある「日本帝国府縣庁所在地標準時の差異表」
日本標準時(明石)との経度差異をたし引きして標準時との調整をする。
新潟は視太陽時より「16分13秒減ずる」と標準時になる
軽便日時計使用法 (使用説明書より)
第一 本器ヲ日向ニ据エ三角形ト半圓起コシテ中央ヲ吻合スル事
第二 磁針ヲ南北線ニ対合スル事
(磁針ハ黒キ方北ト知ルベシ)
第三 水平線ヲ正ウスル事(三角形ノ北端ニアリ)
右ノ如クシテ太陽正南ニ位置スル時ハ三角ノ影黒線ニ入ル此時ヲ以テ正午トナス(即チ地方時)
太陽回転スルニ従ヒ東西ノ時刻ニ三角形ヲ投影スルニ由リ時刻ヲ粗○測知ス而○蓋裏ニ貼付スル日本全国標準時表ニ 由リ加減ヲ算スレバ普通標準時、地方時ノ区別ヲ認知スル事明ナリ
上蓋を開けて寝ている三角形のノモンを立て、弓状のワイヤーで固定します。
ノモンの先には水準の為の重り付糸が垂れています。
文字板には方位をあわせる磁石が有り、Ⅳ~Ⅷまでのローマ数字が刻まれています。
本体裏から見ると穴が2つ開いていて、右が磁石の入る穴で、左が水準の糸と重りが入る穴です。
薄い紙で裏打ちされています。糸と重りが無くなっているものも多いようです。
取説に有るように蓋の裏には「大日本帝国府縣廳所在地標準時之差異」と書かれた全国の都市の標準時との差が表になっています。 例えば「加ノ部 地方時ヨリ早シ 徳島県一分四十七秒」「減ノ部 地方時ヨリ遅シ 和歌山県三十三秒」などと有ります。 日本の標準時が制定された頃のものではないかと想像されます。
■ 日本の標準時
日本の標準時は第2次世界大戦以前に関しては、以下の勅令で標準時が定められています。
•明治十九年勅令第五十一号(1886年7月12日公布)
東経135度の子午線の時を「本邦一般の標準時」と定める。
1888(明治21年)年1月1日施行。経度の定義。
•明治二十八年勅令第百六十七号(1895年12月27日公布)
「帝国の従来の標準時」を中央標準時と改称。東経120度の子午線の時を西部標準時と定める。
西部標準時の適用範囲は,台湾および澎湖列島と八重山および宮古列島。
1896(明治29年)年1月1日施行。
•昭和十二年勅令第五百二十九号(1937年9月24日公布)
明治二十八年勅令第百六十七号を改正し,西部標準時を廃止。
1937(昭和12年)10月1日施行。
日清戦争以降台湾が日本領になる為、西部標準時が設けられた。
この日時計には標準時の記載は有るものの中央標準時、西部標準時とか台湾の記載が無いので明治21年以降、 明治29年以前に発売されたものかも知れません。
このタイプの日時計は明治以降に現れたもので、外見で意外と古いと思われていますが(江戸などと書かれた文献もある)類似品が多く、 明治中後期~昭和戦前まで時計屋や雑貨屋で販売されていました。
下、同様の携帯用日時計、大正~昭和初期、このタイプは戦後まで売られた可能性あり。
前の軽便日時計が明治~大正と考えるとこれらは大正~昭和初期のものと見ます。
使い方は同様なものですが水準装置が無くなり、構造も簡略になり印刷も粗悪になって質感も安っぽくなってきています。 木製磁石を含めてこれらのものは長く売られていたせいもあり必要以上に古く見られています。
下は昭和3年の信太時報(大阪、卸商カタログ)です。同様なものが昭和初期に現役であった事が分かります。左が携帯日時計(正午計)、右が木製磁石(船磁石)。 戦時中のタブロイド版の粗末なカタログにも昭和初期と同じ日時計が載っています。 戦後もデッドストックなどを含めて販売されていた可能性もあり古くて新しい日時計だったのかも知れませんね。
なお、太陽南中の正午を確認するのに古くから日時計が重要な役割をしていたので日時計のことを正午計とも呼んでいました。
参考文献: タイムキーパー古時計どっとコム