上、新潟情緒人形(竹細工人形、高さ10㎝~13㎝)藤娘、おけさ人形
銅谷白洋(栄次郎、1892~1966年)はふるさと画家と呼ばれているように、映画館・大竹座(古町8)の舞台や看板の絵を描くかたわら、新潟の下町、祭りの風景、港の賑わいなど、新潟情緒を生涯描き続けた人である。
それらの画業は新潟郷土資料館に収蔵され、色々なところで展示・活用されてよく知られているところである。
そんな絵に若い頃から親しんできた私は後日、銅谷さんのもう一つの画業である新潟情緒人形(昭和初期・戦前)の存在を知ることとなった。
佐渡産の竹を利用して、その曲面を巧みにデザインして「おけさ」などの郷土人形に仕上げたセンスは素晴らしい、魅力的なものでした。
資料や人形を探して歩き回ってみたものの、数が少なく、人々の記憶もあいまいで、なかなかその全貌はつかめませんでした。
「銅谷白洋と新潟情緒人形」
WANTED !! 再び 「新潟情緒人形」 と 「木目人形」
そんなところ、最近になってギャラリー蔵織の志賀さんから銅谷さんのご家族を紹介され、実家に残された新潟情緒人形との劇的な出会いがあり、後日その寄託を受けました。
幸い、まとまった人形と資料の発見により銅谷白洋さんが目指した新潟情緒の世界がまた再び日の目を見たことは、郷土にとってこれほど嬉しいことはありません。
銅谷白洋さんの足跡を追いながら新潟情緒人形の全貌をご紹介しましょう。
上、西堀シリーズと街灯(高さ10㎝前後)
堀・橋と柳と新潟美人で新潟情緒をアピールしたもの
明治25年新潟で生まれた銅谷栄次郎(白洋)氏は幼少より天賦の画才に恵まれ、長じて帝都の重鎮小馬勘吾先生に師事して、画道に精進を続け、24歳に帰郷した。
時は映画館(活動写真)の勃興期で、大正初期、古町8、大竹座が常設映画館として発足するにあたり、専属画工として迎えられ、演劇舞台や看板に20年以上にわたって活躍し人気絵師となった。
昭和5年には新潟情緒を生かすため新潟土産として、造形的に竹の曲線美を生かし、これを応用した新潟情緒人形を苦労の末考案した。
それはやがて、小櫻人形、浮世人形、新興のろま人形(越佐伝説人形)などに発展していった。生産高は年間12万個に及び国内はもとより、広く海外にも輸出され、新潟情緒を世界に喧伝した。
人形だけではなく状差しや煙草入れ、吸い取り紙ホルダーや衣桁にまで郷土芸術として一世を風靡した竹細工工芸も戦争が激しくなると、にかわなどの材料の調達が難しくなり惜しまれながら幕を閉じた。
戦後はいち早く、子息の繁雄(拍洋)さんと妻・静さんの努力で、戦前の「新興のろま人形」(土人形)が「越後と佐渡の伝説人形」として復活して昭和40年代まで存続した。
残念ながら新潟情緒人形(竹細工人形)の復活は成らなかった。
銅谷さんは戦後、民生委員や連合町内会長として活躍し、新潟海岸決壊防止の催、第一声をあげ、現在の日和山を守った恩人の一人である。
市会議員にも押され当選、その後は画業に戻り、白洋美術学園を開設して児童教育に当たった。昭和41年74歳没
ひたすら郷土を愛し、新潟の絵に生きがいを見出した銅谷さんの次の言葉が印象的である。
「絵をもって50年、自分の生まれた郷土新潟の過去の面影を画に残して自然に帰るのも無意味ではない。幸い自分は西堀の川水で産湯をつかった真の新潟っ子だ。一枚でも多く描き残していくのが自分の課せられた使命である」
銅谷白洋さんの画業は新潟情緒人形によってまた新たな命を吹き込まれたように見えます。
絵の方はみなとぴあに保存されて市の文化財として広く愛されていますが、新潟情緒人形の方は記憶がおぼろになり、小さく壊れやすい人形のため現在残っているものは多くありません。
是非この機会に再び銅谷さんのもう一つの画業の郷土人形の足跡を顕彰して、大切に引き継いでいきたいものです。
再製人を乞う!
下、新潟情緒工芸社商報と題された情緒人形の当時のカタログ表紙、昭和初期
銅谷さんは自宅となりに工房を設け、20人程の女学校出の女工を雇い、指導に当たっていた。
最初は
新潟情緒人形研究所、後に
新潟情緒工芸社と改称したようだ。
下、市内四屋町二丁目・工場の内部の女工さんたちと後ろに銅谷白洋夫妻(昭和初期)
下、大型情緒人形「藤娘」など
上、藤娘 高 19㎝
上、高 18㎝
上、高 26㎝
続く・・・
我が家にはA氏からいただいた古い
桜提灯がある。
A氏によれば古くから祭りなどの時に会社(上大川前)の軒にぶら下げられたものだという。提灯には表面に家紋などが入れられることが多く、桜の紋が入っていた。
これは家紋ではなく、多くの家が同じ紋の提灯を下げていたということである。
この桜提灯に興味を持って調べてみると、古くは明治11年9月の明治天皇北陸巡幸記にいきあたる。明治天皇が北陸巡幸で越後を回った時の話である。
明治天皇の北陸巡幸は当時の政府が明治天皇に随行したような、政府の重鎮など、巡幸の共奉員は総数800人という大行列でした。(9月10日~24日越後)
その北陸巡幸に随行してきた、東京日々新聞の特派員、岸田吟香は「新潟通信」として当時の新潟の様子を次のように伝えている。
「
越後新潟発 岸田吟香記」本月15日より新潟電信局も開業になりたれば、商人の為には益々便利たるべしとの風聞。
越後の国に入りて以来は、人民の軒につるす提灯に一つも日の丸をつけたるものなし。
一般にみな赤き桜の花を書きたり。
これは越後の国の紋かと人民に問いたれば、いやこれは天朝様の紋だすけえ、外のことには燈すことは成らんども、此処の郷社の祭りにやあへあ、三巴の紋を下げるだあ・・・・、
赤の桜は天朝様の祭りより外に燈すことはなりましねえ、との話なり・・」(新潟今昔草紙、松本春雄、昭和33年刊より)
・・・とあり、この桜提灯が越後独特であり、古くから使われていることが知れる。しかしその後のイベントや祭りの写真などを見るとこの桜提灯はいろんな場面で用いられて、皇室がらみだけというわけではなさそうです。
確かに県内ではこの桜提灯はよく見られるが他県ではそうでもないようだ。
色々と聞き及んでも残念ながら新潟と桜提灯の関係は明らかには出来ませんでした。
あるいは北陸巡幸で県が決めた可能性もあります。
今日の日報朝刊記事に提灯を「にいがた花街」のシンボルにしようとの活動が報じられていました。
昔は何処のお宅にもあった提灯も現在ではすっかり見なくなりました。
新潟情緒をちょうちんに託してみるのもまた一興でしょう。
さすれば・・・ぜひ、提灯の紋は伝統ある桜の紋にしていただきたいと願うものです。
「新潟花街の会」のみなさんよろしくです。
下、現在桜ちょうちんは、ギャラリー蔵織のウンドーに飾られています。
北陸巡幸これは明治天皇が行った明治初期の6回の巡幸の内3回目であった。巡幸は徳川幕府を倒した明治新政府の基礎固め、国家の安定のため、ということであった。
不平を抱えた士族らは相次いで反乱を起こした時期でもあり、戊辰戦争のおりに幕府側について戦った列藩との亀裂は、この時代になっても、まだまだ大きいものであった。このように、幕府側と新政府側との鋭い分裂状態のなかで、混乱の世情を安定させ、新政府が求心力を強化するためにも、この明治天皇の諸国巡幸は、必要不可欠な一大行事であった。そしてまた、この天皇巡幸では、地域ごとに多くの休憩所や宿泊所が設けられたが、それを提供したのは、地方の行政機関や施設、土地の名望家や寺社であった。つまりこの巡幸を契機として、地方施設の整備が図られ、地方行政が強化されて、さらには郷土愛の涵養などにも大きな役割を果たしたのである。
ちょうどその年、巡幸の直前、イギリスの冒険旅行家のイザベラ・バードが新潟を訪れて「整然として清潔で繁華な町だ・・」と絶賛しているのですが、これには明治天皇の北陸陸巡幸というタイミングの裏があったのです。巡幸で回る各町村には県からいろんんなプレッシャーがかけられ、バードから清潔といわれた新潟町の整備も巡幸のための苦労した結果だったと思われます。
越後佐渡ヒストリアー「お出迎えはつらいよ、ご巡幸の舞台裏」(新潟県立文書館)
https://www.pref-lib.niigata.niigata.jp/?page_id=891下、明治34年8月、一府十一県連合共進会の博覧会開会当時の古町5の光景、博覧会で販売された鶏卵紙写真桜ちょうちんで飾られた古町町内
下、同じ時期に新潟に来て写真を撮った、六日町、高橋捨松翁の「古町6、勧商場」当時のマーケットである(後の新潟ビルディングの場所)。同じ桜ちょうちんが見える。(南魚沼市・金城酒販 高橋コレクションより)岸田 吟香(きしだ ぎんこう、1833年6月15日(天保4年旧暦4月28日)、一説に同天保4年旧暦4月8日(1833年5月26日)- 明治38年(1905年)6月7日は、日本の新聞記者、実業家、教育家。美作国久米北条郡垪和(はが)村大字中垪和字谷大瀬毘(現岡山県久米郡美咲町)出身。目薬「精錡水」(せいきすい)を販売するなど、薬業界の大立者としても知られる。明治10年発刊の新潟日報の前身、新潟新聞の初めての広告がこの「精錡水」であったことは有名。岸田劉生はその四男
上、今となっては大変珍しい?和田誠デザインのロゴがおしゃれな初期のコースター、ちゃんと大切にしていましたよ~!(笑)
とてもこのコースターが気にいって、「ちょうだい!」と言ったら、もう在庫がないんだよね~?・・といわれて、シミの付いたものを無理にもらったような~覚えが?
その後経年と共に所有者同様、シミが増えましたねぇ~・(笑)
今日(3/15)の日報おとなプラスを見て驚きました。
新発田のジャズ喫茶「バード」が載っていたからです。
若いころ通ってお世話になった思い出と記憶がよみがえりました。
ひと時代前(’60年代)には音楽鑑賞喫茶という喫茶店があり、特にジャズレコードを聴かせるジャズ喫茶というのは一種独特の雰囲気で人気がありました。
現在のバードの看板には「MODERN JAZZ TEA ROOM」となっていますが私の中では今でも「ジャズ喫茶」です。今ではジャズ喫茶は死語になってるのかと思いきや?まだ生きているのですね?
でも当時の雰囲気は若い人には理解できないでしょうね?
ジャズ喫茶とは、現在人気のジャズクラブとはまったく異なり、暗く閉された、あなぐらのような空間でただひたすらジャズレコードを 聞きながら瞑想にふけるような、まるで修行の場?のようであったジャズレコード音楽鑑賞喫茶店の事です。
楽しい会話さえはばかる?ジャズ修行道場のような空間が全国に存在していたのです。
やがて中央のジャズ喫茶からライブが始まり、時代のニーズは明るく開放的なジャズクラブへと発展していきました。
それと共にジャズ喫茶も変貌を遂げていきましたが、バードは良き時代のジャズ喫茶全盛の外観雰囲気をそのまま現在に伝える貴重な聖地のような存在となって全国的にもまれでしょう。
久しぶりに見る店内写真も50年間ほとんど変わってないようで、嬉しい存在ですね。
ご夫婦の努力で現在までいろんな人材や文化を育んでいることは頼もしい限りです。
若い頃の一時代前のジャズ喫茶というのは、そういう雰囲気で少し敷居が高く、暗い空間でした。
またそのオーナー(マスター)が輪をかけたような難しい顔をしていて、若造には入りにくいものでしたがお洒落で気になる場所でもありました。
丁度学園紛争が盛んな頃でそんな落ちこぼれた連中もたまり場にしていました?
また、当時、クラシックもそうでしたが、ジャズは音楽とオーデオが一体化されてた時代で、分不相応なオーディオ機器にあこがれました。
ジャズに詳しいだけでなく、メカにも蘊蓄を語れないと大きな顔ができない時代でした。(笑)
おかげで山水、トリオ、パイオニアが台頭した時代でもありました(懐かしい名前です・・)がJBLやアルテイックは雲の上で、ジャズ喫茶に会いに行くような存在でした?
オーナーも本格的な変わり者が多く、バードのマスターも若い頃入り浸った?、東京の老舗DIG、DUGのオーナーは写真家としても一流で、店には掛時計が多くかかっていた古時計のコレクターでもありました。
その後、私も古時計好きになったのもそんな影響もあったのかもしれませんね。
DIGは「ジャズ喫茶に時計」のイメージを定着させたジャズ喫茶伝説の名店です。
また、同じ新宿、コマ劇場の裏のビル地下3階にあった、ジャズ喫茶 「木馬」もすごく、店の半分が古時計博物館のような展示ルームで、都会島はスゲェ~!・・と東京へ行く度、お上りさんしたものです(笑)
下、30年近く前の新宿ジャズ喫茶・木馬でKさんと。今はもうない名店でした。オーナーのOさんに撮ってもらった写真です。
そんなわけですから、バードのマスターがただ者であるわけがありません?(笑)
趣味で知り合ったこともあり、私にとってはバードはとても居心地の良い場所でした。
話があらぬ方向へ飛びましたが・・・。
当時、歴代のジャズ喫茶のオーナーの感性が優れていたように、バードのマスターも同様にぴか一でした。
ジャズを聴く、語る耳や口は多くの人の知るところですが、ものを見て選ぶ目も非凡なものがありました。
行く度に、店内には朝採りした山野草が気に入った器にさりげなく活けてあって、迎えてくれました。
その器(花器)がそば猪口であったり、古い灯火器であったり、漆桶であったり・・とてもセンスの良いあか抜けたインテリアでした。
今ではそいういった見立ては珍しくありませんが、当時はとても新鮮で感激しました。
決して高価なものを使うということではなく、既成の価値観を軽々と超えたところに自由な発想があり、大いに刺激を受けました。
そういったセンスは人より二歩先を行ってた人でした。
面白く、いいものをたくさん見せてもらいましたが、「あれはどうしました?」と聞くと、「勝負して取られた・・」とか「東京の目利きに持っていかれた・・」とか、フットワークが軽いのも性分でした。
マスターは下戸の私から見ても酒はそう強そうに見えませんでしたが?
あるころから、酒で体調を崩したのがおしまれます。
その後、こちらも仕事や子育てが忙しくなってご無沙汰してしまいました。
下、器と山野草 李朝のバンダチの上とは贅沢な~?たくさん見せてもらった中で分けてもらったのはほんの一握りです。
その一つ、下は初期伊万里の小皿です。左がそれと右が最近見つかった皿
下、左、家蔵の小皿表、径8.3㎝、右、8.1㎝下、裏これだけ小さい皿は可愛く、珍しい。「おてしょ」と呼ばれた「手塩皿」でしょうが、大皿に負けない風格はさすが初期のはつらつとした、初々しさです。
実は最近これと同じものが市内からまた一つ出てきました。(右側の小皿)
元々の出どころは多分同じマスター?だったんだね。
何十年ぶりのもう一枚の小皿の出現に、誰かが呼んだんだ~・・と思ってたら、日報のOtona+にバードの特集が掲載。
いろんな縁は巡るんだなぁ~・・・?としみじみ・・。
バードの奥様も元気そうだからまた行ってみたいね。
昨年も同時期に同様な記事をアップしてます。(ここでねんど母さんも登場してます・もう一年かぁ~笑)
http://hikarataro.exblog.jp/25498095/ギャラリー蔵織の志賀さんも帰ってきて門前・開花報告もありました。
蔵織の雛人形展も後半に入り賑やかです。
喫茶室には大正時代の7段飾りと右に同時代の某旧家蔵・外国製西洋人形(英国製と仏国製)、伊藤呉服店(松坂屋)の包装紙付
下、新潟には御殿雛は珍しい、戦前
元禄雛(古式享保雛)
又急に雪模様・・・名残雪でしょうが?
白山周辺は「越の千本松原」といって古くは松の名所でした。
市役所前の松も右は樹齢800年、左が500年とか言われています。
ちょっと盆栽のような風情のある黒松でこの位の雪が似合いますね?
下、白山公園前の「ギャラリー蔵織」も新潟町屋景観としてももう名所です。
右隣りはまだ活用されていません、マンションに囲まれていますが、このように雰囲気のいいツインハウスはあまりありません。千本松原同様大事に育てていきたいものですね。
開花した桜も少しかじかんでいます。
下、ウインドーにも御殿雛が飾られました。
ねんど母さんにお願いしていた団子三兄弟の誕生日祝いの人形が丁度ひな祭りに?届きました。
表情豊かな顔や姿、じんべの細密でリアルな柄、我が家の三河猫までいます(笑)
ねんど母さんの超絶技巧に乾杯!!
丁度今日は幼稚園も休みで引き渡し式も無事すみました。
一番喜んでるのは親とジィか~?(笑)
下の原画を見るとよく出来てるのが分かり、笑えます?(笑)
湊にいがた雛人形町めぐりの一環の新潟日報
「メディアシップの雛人形展」が25日から始まり3日(金)までです。週末には御菓子鋪「にむらや」さんがお菓子とお茶の茶屋を出店してくださって盛り上がりました。