銅谷白洋さんには後に、拍洋を名乗ったご子息・繁雄さんがおられる。
父白洋の画業にあこがれて若き日に多くのみずみずしい感性の新潟風景を描いている。
それらは2006年に「銅谷拍洋画集、移り変わる風景みなと町新潟」(昭和7年~10年・皆川袈裟雄編、新潟日報事業者刊)にまとめられている。
画集は絵の素晴らしさと共にすでに失われた記録としても得難い魅力を持っている。
銅谷拍洋さんはその後昭和11年に多摩帝国美術学校(多摩美大)彫刻科に進み、終了帰郷後、郵便局に勤務の傍ら入江美法に能面製作を学ぶ。
昭和48年太平洋美術学校入学と共に休日は児童絵画教室の指導を行う。
日本美術家連盟会員、日本彫刻会々員、として多くの彫刻作品を残す。
平成27年没
銅谷さんは平成4年の火災でアトリエと自宅を全焼して、残された彫刻80点、絵画300点、郷土玩具3万点を焼失したのは残念でならない。
戦後の新潟観光案内書に「越佐伝説人形―銅谷繁雄」の名前が見える。新潟情緒人形の後を繁雄さんが引き継いで、母上、静さんと新興のろま人形である「越佐伝説人形」を復活していたことが分かる。
銅谷白洋親子は郷土をこよなく愛し、創意工夫を重ね、地元に根差した新しい文化を創造発信した。この苦難の軌跡は今の若い人たちにも大きなエールになるでしょう。
下、昭和33年5月新潟観光協会刊「観光新潟」の小冊子の中の「新潟みやげ」に銅谷さんは
「越佐伝説人形」を作っていることが載っている。
戦後「越後と佐渡の伝説人形」(新興のろま人形)を丹精を込めて製作中の静さん
戦後に静さんが作った「越後と佐渡の伝説人形」(新興のろま人形)
下、越佐伝説人形のキャラの取説
古臭い伝説のイメージがかえって新鮮ですね!どれだけ知られてるのだろう・・面白い!
下、現在、小さな美術館 季さんで「ねんど母さんと栗原さんのほっこり作品展」が好評開催中です。
ねんど母さんは郷土の現代人形の旗手です。これからの益々の発展変貌に刮目してます。
皆さん必見です。30日まで、江南区松山112、025-276-2423
上、新潟情緒人形「武者人形」17㎝
銅谷白洋(栄次郎1892~1966)はふるさと画家と呼ばれているように、映画館・大竹座(古町8)の舞台や看板の絵を描くかたわら、新潟の下町、祭りの風景、港の賑わいなど新潟情緒を描き続けた人である。
それらの画業「新堀四ツ橋の盆踊」「明治5年ころの新潟税関」などの代表作は新潟郷土資料館に収蔵され、多くの市民に親しまれてきました。
しかし、もう一つの画業である「新潟情緒人形」は残念ながらあまり知られていません。銅谷白洋は時代の変革期であった昭和初期に地元のために苦心の末「新潟情緒人形」を創造した。これらは自宅工房で多くの女工たちによって佐渡産の竹を利用した竹細工人形として新潟情緒を全国から海外にまで喧伝した。
年産10万個以上といわれる人形は多くの特許が語るように、やがて人形から実用品にまで発展していった。
そんな活動も戦争による統制経済下で惜しまれながら幕を閉じることになった。
昭和初期という現在に似た閉塞感に満ちた時代にあって、地元から独自の創意工夫で時代を切り拓いた銅谷さんの贈りものをその見事な作品から見取ってください。また、これらの時代背景となった、大正ロマン~昭和モダンに至る新しい芸術の流れに乗って人気を博した、日本のアールデコと呼ばれる「小林かいちの世界とその時代展」を一緒にご覧下さい。
5月11日(木)~23日(火)「銅谷白洋と幻の新潟情緒人形展」(併催:小林かいちの世界とその時代展)がギャラリー蔵織で開催が決まりました。
銅谷さんの時代を超えた熱い想いをご覧ください。
もう一部がギャラリー蔵織に展示されています。
志賀さんが言うように、現代のフィギュアやアニメのルーツに通じるデザインの先進性を感じます。
歴史というものは過去を振り返って何かを見つけることです。
郷土の歴史を再認識するよい機会になるでしょう。
これら銅谷さんのエールは、近年語られる未来志向につながるものではないでしょうか。
■ カタログと製品種類
カタログ表紙:日本情緒工芸社商報(新潟情緒人形研究所・所主 銅谷白洋)
■ 製品種類(カタログより)
最初、「情緒人形研究所」と称していたように人形主体のスタートでしたが、やがて時代のニーズもあり人形以外の製品が加わることによりこのカタログ(昭和10年前後)にあるような「日本情緒工芸社」という名前に変わっていったと思われる。
「イの部」
1、花見舞、2、3 豆スキー、4、小豆おけさ、5、小櫻人形 舞妓、6、豆猫、7、豆藤娘、8、豆潮汲、9、小櫻人形 子守、10、竹湯呑、11、手桶型楊枝入れ、12、小桜人形 おけさ、13、中豆おけさ、14、小櫻人形 長松、15、虚無僧、16、笠おけさ、17、小櫻人形かぐら、
18、上おけさ、19、かご、20、三人おけさ、21、スキー、22、極上潮汲、23、上鳥追、24、上潮汲、25、並藤娘、26、上藤娘、27、並潮汲、28、越後獅子楊枝入、29、豆舞台、30、おけさ丸
31、橇引き、32、子けし人形、33、おけさ楊枝入、34、街灯、35、時間表付黒猫、36、柳付鳥追
37、柳付樽きぬた、38、並鳥追、39、西堀、40、おでんや、41、屋形舟、42、橋、43、宝付衝立
44、櫻音頭衝立、45、おけさ人形衝立、46、並舞台桐箱付、47、大舞台桐箱付
「ロの部」
1、大松形、2、中松形、3、小風鈴、4、小松形、5、松葉形、6、竹柱掛(大)、7、竹柱掛(小)
8、大扇面、9、板柱掛
「ロの部」
1、風鈴形、2、小扇面、3、大葉形、4、通信うちわ、5、状差、6、板スカシ柱掛、7、通信便り
「ハの部」
のろま人形
「二の部」
1、おひな様、2、春駒楊枝入、3、ペーパーナイフ、4、並巻煙草入、5、上巻煙草入、6、筆立
7、菓子皿、8、お盆、9、はかま入、10、衝立便り
「ホの部」
武者人形、大虚無僧、大舞台、衣桁
■
人形の分類ー人形単体の種類は以下のように分けられる。
①新潟情緒人形
佐渡産の竹素材をミシンのこで切断・成形して彩色、台座を付けて仕上げる人形。またはこの人形を張り付けた実用品もある。
おけさ人形、潮汲、藤娘、鳥追い、西堀シリーズなど
②小櫻人形(昭和10年ころ)
鷲の木の桜を台座に使い、上に竹人形を乗せた。
春4月、春爛漫の気分を盛ったもの、「子守」「絵日傘の娘」「公卿様」「チンドン屋」「芝刈」など
下、昭和10年2月6日付、新潟毎夕新聞、「小櫻人形 銅谷白洋さんまた新作人形を!」
なほ銅谷氏の情緒人形は最近では全国的となり厳島、日光、松島の日本三景をはじめ各地で売り出されている居るばかりでなく遠く海外にまで輸出され一か年の製作数十万個にのぼっているとは全く驚くよりほかないではありませんか。
下、小櫻人形をあしらったブロマイド
「物言ふ人形/ 言わぬ小櫻人形」-このブロマイドで新潟港を大いに宣伝。昭和10年3月6日付、新潟毎夕新聞
女の新潟でもの言ふ人形の代表ともいうべき美人、梅村の藤千代さんが、此れはまた物言わぬ新潟産の小櫻人形を配した写真のごときブロマイド数萬枚を複写して横浜大博覧会へ「新潟名物」物言ふ人形と物言わぬ人形の大宣伝を試みることになった(写真は梅村の藤千代と小櫻人形)
③うきよ人形(昭和10年ころ)
竹の局面(前面)を利用したもので50種近くあり、中に「幸福の占い」が付いている。
下、新潟毎日新聞夕刊、昭和10年1月24日「うきよ人形」
④新興「のろま人形」
佐渡の伝統的な土人形「のろま人形」をリニューアルして、「越佐伝説人形」として越後と佐渡の伝説を表現した土人形。これのみ戦後まで生き残った。
下、新潟新聞、戦前
下、戦後、銅谷繁雄さん、静さんによって継承された「越後と佐渡の伝説人形」(のろま土人形)
人形の頭、一つ高さ、3~4㎝
⑤実用品など(広義の意味の情緒人形)
これは竹細工工芸が発展したものでいろんな実用品に竹や人形が使われた。
煙草入れー紙巻き煙草、きざみ煙草入
お盆、皿、ペーパーナイフ、状差し、吸い取り紙ホルダー
衣桁
下、煙草入と吸い取り紙ホルダーのカタログ
下、ペーパーナイフと吸い取り紙ホルダー、人気のポパイが傑作。
上、新潟情緒人形「雨宿り」高さ18㎝、比較的大型の人形です。
戸もちゃんと開け閉めできます、建具も秀逸。
下、銅谷白洋夫妻、昭和初期
長年、新潟に春を迎える、「湊にいがた雛人形町めぐり」の企画行事に携わって、その地元人形探訪の中で出会ったのが新潟情緒人形でした。
新潟情緒人形は昭和5年から終戦まで、銅谷白洋さんによって年間10万個以上生産され、広く国内外に輸出され、新潟情緒を世界中に喧伝しました。
その評判も、戦争によってかき消されてしまい、人々の記憶からも薄れ、人形も僅かしか残っていませんでした。私はそんな人形の探訪の旅にさまよっていましたが・・。
今回、銅谷家から見本として保存されていた人形たちの存在を紹介され、驚喜しました。
新潟情緒人形は名前が示すごとく、「つきせぬ新潟情緒」を伝えるために、絵から人形に姿を変えて考案されました。
古くから新潟は花街が発展し、港町であると共に、堀と柳と新潟美人が代名詞でした。
そんな新潟情緒を具体的に人形として立体可視化したのは銅谷さんが初めてでしょう。
人形の種類は600種といわれ、すべてが人形だけではありませんが、残された作品を見ると銅谷さんのデザイン力、完成度に感服する。
土産物や観光資源としても大いに新潟の魅力を発信したことは当時の観光パンフレットなどにも見られる。
最初は人形が中心であったがやがて時代の要請から、状差しやペーパーナイフ、郵便しおり、煙草入れから灯火器スタンドや衣桁まで実用化している。
銅谷さんは発想力に富み、日夜努力を重ね、「いつも鉛筆とノートが枕元から離れなかった」と述懐してるように、寝食を忘れて没頭したことが窺える。
早くから実用新案や意匠登録など11に及ぶ特許を取得したが、後に多くの類似品が出回った。そんな当時の様子を新聞記事紙面から見てみましょう。
「材料は佐渡竹を、阿新丸が敵討をして逃げたあの竹です。
極めて豊富なのと産地をひかえてをるので地の利を得ているし、それに工場に働く女性たち20名は大部分が人形に興味を持ち女学校を出た人達。私が絵を描く気持ちで創作したる図案を彼女たちが鋸から小刀までやって、絵筆を握り、魂を吹き込んで作ってくれます。
新案登録、意匠登録を11持っておるが、侵権者は追究せず、この悲しむべき模倣者を追い越してどしどし新考案で生きて行ってます。全国の至る所の名勝地にはその土地の特色を生かした土産芸術品を作り出し、ここ新潟から供給しています。
どうです、種を割れば名勝土産もそんなものですよ・・・」と語っている。
佐渡竹の利用とその曲線美で完成されたおけさ踊りの振り袖姿や柳の下をさまよう虚無僧など柳と橋と女の街というイメージを人形に置き換えている。
その製作はミシン鋸や採色まで女性が受け持っているのがさすが別の意味で女の街である。
また実際、全国から各地の意匠の郷土人形の制作オファーがあり、昭和6年栃木県では実際に栃木情緒人形が作られ、栃木工場まで設けた。
下、昭和6年11月5日東京日々新聞栃木版
上、初期の「新潟情緒人形研究所」時代の工場内と外観、自宅部分は今もそのまま存在して往時をしのばれます。
銅谷白洋さんが新潟情緒人形を作るまでの苦労や経緯は当時の新聞紙上などにも回顧談として語られていますので、それらを引用しながらその道のりをたどってみましょう。
白洋さんは平成四年に四屋町2丁目のアトリエ・工房を焼失したとき、彫刻や絵画と共に二代で集めた全国の郷土玩具3万点をすべて灰燼に帰したそうです。
銅谷さんは木地玩具や土人形などの人形類は元々好きだったと思われます。
情緒人形に取り掛かった、昭和初期は映画館も弁士がトーキーに変わるころでもあり、銅谷さんの周りも変化をきたしていました。
またその頃は昭和恐慌の真っただ中で失業した人たちが銅谷さんを頼ってきた時代でもありました。
銅谷さんはこうした人たちのためにも地場産業、家内工業的な産業を興す必要を強く感じていました。そこで付き合いのあった商工会、市産業課、県図案課、木工試験場などの人々の協力を得て苦労を重ね、新潟情緒人形を仕上げました。
この人形の発案時期については新聞紙上でもいろいろ日時が異なりますが、人形の特許(実用新案登録)を特許庁に最初に申請したのが昭和5年12月26日ですので、発案もそれに近い頃ではなかったかと思われます。
またその発案が夢枕に出てきたという新聞紙上の話は、「御夢想」といって昔、薬などの製法・発売の定番の文言でもあり、夢のお告げという話はあちこちにあり面白いところです。
また、銅谷さんは最初の人形の登場を紙上で人形に語らせています。
新潟毎日新聞、昭和6年1月2日付
「思ひ出多き1930年(昭和5年)は私の誕生時代でありました。
8月の納涼展に初めて皆様にお目にかかり、田舎丸出しの姿で見る人毎に笑われました。
恥ずかしかった私も恵みが与えられまして、洋画家銅谷白洋さんの創造になる竹工曲線美で作られました。
そして皆様にお目見え致しました時は何といううれしさでしたでせう。
非常な賞賛と愛玩を蒙りまして私は本当の幸福を知りました。それから銅谷さんの不眠の努力は弥が上にも美しい芸術的にして下さいましたので先頃開催の入選の光栄に浴しております。其時審査官は海外輸出品として最も有望であると仰ってひろく紹介してくださいました。近く多勢の弟姉と一緒に海外へ旅立つ日の到来したことを喜びと共に私を愛してくださる全世界の方々にどう御挨拶して良いやら分かりません。
現在東京、京都は申すに及ばず、名古屋、横浜、遠くは北海道、上海あたりからもご挨拶しきれないほどのお招きにあずかっております。私は自分の曲線美によって新潟情緒を通じて日出づる国の純美を発揮するため、晴々しく海外へ旅立つでせう。
どうぞこの小さい可愛らしい人形の大きな使命を褒めてやってくださいませ。
新しい年を迎えて私は更に郷土愛の皆様のご後援により世界の舞台に向かって一大飛躍を試みます。もし私の御用がおありでしたら新潟市四屋町、新潟情緒人形製作所へお尋ねくださいませ。私はここに装いをこらしてお目新しくお迎えいたします。」・・・とそのデビューが昭和5年の8月14日から埋め立て地の新白山公園で開かれた「国産品奨励、納涼博覧会」であったことを伝えている。
■ 大正ロマンとアールデコ(新様式デザイン)
デザイン的には佐渡の竹をうまく利用するため曲線美を意識していますが、どこかモダンなセンスが生きています。これは1920~30年代(大正末~昭和初期)にかけて流行したアールデコと今日呼ばれるデザイン様式の影響を受けているからです。
このアールデコという名前は1925年(大正14年)パリで開催された装飾美術博覧会の略称で、これを機に欧米で流行し、リアルタイムに日本に持ち込まれました。
日本では日本的に姿を変えて折からのマシンエイジの機械化、大量生産に乗って衣食住の多くのものに影響を与えました。
特に大正デモクラシー以降、自立した女性(女学生)に人気のあった夢二や華宵などが新様式など言われ活躍した大正ロマンの時代であった。
これらの抒情画と呼ばれたスタイルも元々は外国から入って、日本的に変化していったものです。
特に関東大震災の被害を受けて一時京都へ文化がシフトした時代(大正末~昭和初期)があり、京都京極角「さくら井屋」ではアールデコ調の絵葉書や絵封筒を小林かいちのデザインで手掛けて一世を風靡しました。
京都デコなどと呼ばれているものたちです。
こういった夢二からかいちに連なる抒情的な作品は女学生らに圧倒的に支持され人気があったため、白洋氏もデザイン的には女学生向きのものを考えた時代背景があったのです。
しかし、泣き崩れるような抒情的なムードが多い夢二やかいちに比べると白洋美人はたおやかでありながらもっとたくましく明るく見えます。
人形素材に郷土の竹や柳を使ったように、たおやかでありながら芯は強く、優しい素材に郷土への想いを込めたのではないでしょうか。
それが新潟情緒人形です。
時あたかも地方にも都市化、近代化の波が押し寄せてきた時代で、新潟にもこのような古い世界と新しい世界を日本的に融合・共存させたモダンな世界が芽生えていたことを誇りたいですね。
しかし戦争がすべてを押し流してしまいました。
改めて都市文化の遺産を認識して大正ロマンから昭和モダニズムへー新潟アールデコの世界を次の時代へ生かしていかなくてはなりませんね。
上、西堀と橋、柳まで高さ15㎝
下、大正13年博進社刊「新潟県肖像録」より
新潟美術研究美術社、大竹座専属、「白洋君」 新潟市古町通
左が若き日の銅谷白洋(栄次郎)、当時は大竹座の近くに住んでいた。
隣の小さい子供が後の「銅谷拍洋」(銅谷繁雄)大正7年生、画家、彫刻家 「移り変わる風景 みなと新潟1932~1935」の画集の作者として10代のみずみずしい新潟風景画を発表している。
下、昭和初期には各種観光案内図の表紙に新潟情緒人形は使われ、新潟の顔となっている。
下、以前、ギャラリー蔵織で「小林かいちと日本のアールデコ展」を開催している。今回はその続編(本命ですが・・)のようなものですね。
下、その時展示した、小林かいち「現代的版画抒情絵葉書・第38集・君待つ宵」
日本にも確かにアールデコは上陸していた、それも日本的に姿を変えて・・小林かいちと日本のアールデコ展―①
「小林かいちと日本のアールデコ展」ー②
小林かいちと日本のアールデコ展ー③