8月12 日付、新潟日報朝刊に「禁酒島とっくり公開」という記事が載った。
明治初期、禁酒令が敷かれた北海道・奥尻島の遺跡から出土した焼酎徳利の話題である。
この焼酎徳利は越後産焼酎徳利(当時新潟市などで生産された焼酎徳利)であることが簡単に紹介されているが北海道側の配信をそのまま載せたのか、新潟側の具体的な考証がなく少し寂しい記事でした。
前にも何度か紹介しましたが、丁度開港150年の節目に合致する北前船のおくりもの物語ですので再度登場です。
この焼酎徳利は明治初期から30年代にかけて北前船に乗って東北・北海道に方面に大量に輸出された焼酎徳利です。主に当時ニシン漁でわいた北海道漁民向けに出荷されたため松前徳利の名前が付けられた。
その徳利の分布は全道に及んでいるところから当時の人気、普及ぶりがうかがえる。
この焼酎徳利は主に沼垂の酒造メーカー(堀川酒造、小松原酒造、丸源酒造(近藤→越の華)など)が焼酎を生産し、西蒲原、巻の松郷屋や五頭山麓地方(山崎・笹岡・村岡)で焼酎容器として徳利(7~9合)を焼かせて、それに焼酎を詰めて焼酎徳利として販売したものでした。
明治10年~20年代の最盛期には年間30万~150万本の徳利が窯場の生産のほとんどを占めたということです。
日報の記事、写真の徳利は破損しているがいずれも松郷屋焼の徳利の面影を残している。
松郷屋焼の焼酎徳利は外観が短頸のものと長頸のものがあり、新聞写真は初期~中期のタイプの長頚のスタイルを示している。10本並べた松郷屋徳利の参考品と比べてみてください。
松郷屋の焼酎徳利は既成の焼酎容器でありながら、珍しく釉に窯変がありその手慣れた独特な形と相まって、越後のやきものの中では極めて特異な魅力的なやきものです。
明治初期、三国屋として酒屋(酒造家)をしていた斎藤喜十郎も一時期北海道向けの焼酎を扱っていたことが知られています。
■ 天保の飢饉と松郷屋焼この越後焼酎徳利に代表される蒲原のやきものの歴史は江戸の飢饉と東北の窯場と深くつながっている。
江戸時代、天保の飢饉は享保、天明の飢饉と並び近世三大飢饉の一つといわれ、天保3年~7年まで続いたという大凶作であった。
百姓といえどよほどの大きな地主でなければ食べていけない悲惨なものでした。
多くの難民を生じ、農民は生きるために四方に離散した。
その中で大きな窯場のなかった越後では福島県大堀相馬や会津本郷へ出稼ぎに行って陶工の弟子入り修行をした人も少なくなかった。
それらの人々がやがて年季が明けると帰国して蒲原地方の各地に新しい窯を興した。
西蒲原郡漆山出身の二村為八もその一人であった。
弟妹と一緒に相馬へ出かけ、修行して年季が明けて郷里へ帰ると、三根山藩の御用陶器師として抱えられ峰岡丸山に御用窯をひらいた。(丸山焼)
為八は技術の優れた陶工で弟子をたくさん養成した。松郷屋焼の焼酎徳利は阿部勘九郎の創業といわれるが、これも二村為八の技術を持って導入された窯場であった。
又、三代目の弟、二村利七も相馬に修行に出て帰国後は稲島や秋葉に窯を築いて、稲島焼や新津焼を興した。
この様に飢饉によって多くの人々が相馬や会津に出稼ぎ修行に出向き、その後の蒲原の陶業を支えた。
天保の飢饉は蒲原地方の陶業の生みの親ともいえる、それにより相馬の流れをくむ多くの窯場が生まれたことはその絆を物語っている。
同じ焼酎徳利を焼いた五頭山麓地方の山崎、笹岡、村岡もやはり相馬系の窯である。
そういった流れを受けて先年、旧斎藤家別邸で開催された「相馬焼展」と「松郷屋焼展」は東北大震災で壊滅的な被害を受けた大堀相馬焼の復興を応援する、歴史的な絆を確認する大変意義深いものでした。
旧齋藤家別邸で「福島 相馬焼展」が開催されます。旧斎藤家別邸の「松郷屋焼展」と学校町 「一箱古本市」北前船の贈りものー⑭ 松郷屋焼 ー焼酎徳利松郷屋焼と笹岡焼ー 焼酎徳利
■ 光越窯の羽田光範さんがこの松郷屋焼酎徳利に興味を持って復元しています。
少し小振りに魅力的な雰囲気を残してさすがです!
東堀の篠原商店さんに光越窯の販売コーナーを作ってもらったそうでそちらでも見れますよ。