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2012年 05月 24日
![]() 上、「新潟名所寿ご六」 明治34年7月28日印刷、同年8月5日発行 発行者 古町7番町 澤井 清次郎 印刷者 同市寺裏2番町 松岡 貞吉 発行 古町・勧商場内 澤井浪花堂 電話 16番、 石版印刷 47x63cm 明治34年発行の新潟市内地図の裏面に新潟名所案内図として載せた石版画を「すごろく」に仕立てて、改装出版されたものです。 明治34年は鉄道が沼垂駅まで伸びて、鉄路が東京とつながり、現在の市役所の処に「物産陳列館」が竣工し、8~9月に「一府(東京府)十一県聯合共進会」という、当時流行りの博覧会を盛大に挙行した年でした。 双六は振り出しが萬代橋で上りが共進会会場「物産陳列館」という、ちょうどその道順を示すような博覧会の協賛・観光案内図であったことが分かります。 また、この博覧会に参加して写された写真(六日町・高橋捨松翁コレクション)(写真アーカイブ―②白山界隈)やその後の絵葉書と意外と正確に描写されているこの双六の石版画を見比べながら当時の新潟の町並みを検証してみましょう。 ①振り出し=萬代橋(BANDAI BRIDGE)→市役所 ![]() ![]() ![]() 上、双六-振り出し・萬代橋→市役所 石版図 下、2枚目・明治40年頃絵葉書・3枚目・明治38年絵葉書 2枚目の絵葉書は新潟市の文化財、五姓田芳柳筆の「新潟萬代橋図」の原図写真と思われる 萬代橋の橋下には警察の派出所がありその左隣が川汽船の安進丸の発着場でポールが安進社の掲揚塔 下、六日町・金城酒販・高橋コレクションよりー萬代橋下、川汽船乗船場、右下隅に安進丸の屋根が一部見える。 ![]() 石版図は初代萬代橋の定番の構図ですが、萬代橋は架橋当時第四国立銀行頭取の八木朋直の私有の有料橋でした。 明治30年北越鉄道の竜が島停車場(沼垂駅)が開業すると萬代橋の通行量も急増し、公有化の世論の高まりを受けて、県は橋の買収を提案し、明治33年4月1日に県営移管となった。 それに伴い八木の名前の記された鋳造製の橋名板を外し、木製の橋名板を付け替え、通行無料となった。 県営になった後、橋の中央に1200燭光のアーク灯(街灯=電灯)が設置されたのが石版画にもちゃんと見えている。新潟では明治31年から石炭火力発電による電灯事業が始まったが、一般家庭にはまだ電灯が普及しておらず、橋の電灯は珍しがられた。 ちょうど橋の県営移管直後の4月6日、新潟県は一府十一県聯合共進会の誘致に成功し、会場の現市役所の処に建てられた新潟物産陳列館までの道路整備が進められた。柾谷小路は本町から西堀間が拡幅され、鏡橋は木橋から鉄橋に掛け替えられ、萬代橋欄干のペンキ塗装や橋板の一部取り換えなどが行われた。 その後、明治37年5月にやっと北越鉄道の新潟駅が開業しました。 この初代萬代橋は明治41年の春の大火で類焼し、焼け落ちてしまいました。 下、市役所ー明治14年に建てられた初代市役所、13年の大火で焼失した初代県庁の跡地に警察署と共に建てられた庁舎。当初は区役所と呼ばれ、22年の市制後市役所となったが41年の大火で再度焼失。 門柱や門扉、木製のボーダーフェンスなど同時期に建てられた新潟県庁にそっくりである。 参考文献: 新潟歴史双書9 萬代橋と新潟 (新潟市) ![]() 2012年 05月 18日
中央区西堀前通1番町のギャラリー蔵織で「奥村進作品展」が始まりました。 地元で陶クラブ・陶芸教室主宰の奥村進さんの作品展です。 コーヒーカップとソーサーを分けて頂きました。 面白いデザインと使いやすさでお勧めですよ。 会場で楽しい世界を実感できます。 ![]() 2012年 05月 15日
![]() あっという間の一週間、「帆船あこがれ」が明後日いよいよ次の寄港地へ向かいます。 天候に恵まれず、日曜日だけは晴れましたがまた雨続きで、新潟沖の帆走も見れずじまいでした・・・残念。 又この次の「あこがれ」にとっておきましょう・・・またね~♪ ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2012年 05月 13日
やっと久しぶりに天気に恵まれ、公開日も多くの見学で賑わいました。 青空に満船飾が鮮やかでした。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() う~・・・もう酔ったぞ~? おえっ・・ ![]() 2012年 05月 08日
![]() 今日、大阪市の航海練習帆船「あこがれ」が信濃川左岸、みなとぴあ上流に接岸しました。 新潟市が誘致したもので寄港中に体験航海や船内一般公開が予定されています。詳しくは下記サイトでご覧下さい。 http://www.pref.niigata.lg.jp/niigata_kouwan/1335387614504.html ![]() ![]() ![]() あこがれは大阪市が所有する航海練習船。一般市民が航海を体験できる日本で唯一の帆船(スクーナー)である。船名は一般公募で選ばれた。大阪南港にある「ATCオズ岸壁」を母港とする。(wikipediaより) スクーナ―型と呼ばれる帆船は実は新潟港には大きな響きを持っています。 明治から大正にかけて新潟港はそれまでの北前船貿易が電信や鉄道などの普及により急速に衰退していき、対外貿易は不振でした。それに取って代わるように新潟港は遠洋漁業(北洋漁業)の一大基地となった時期でした。樺太やカムチャッカ方面に活躍した遠洋漁船の中心がこの2本~3本マストのスクーナ―型の機帆船でした。信濃川萬代橋下流左岸がこの遠洋漁業の帆船で埋め尽くされた時代がありました。 「あこがれ」による体験航海や見学会では新潟港を繁栄に導いた遠洋漁業の先達のスクーナ―型帆船の歴史やリスクを恐れず挑戦した漁業家の努力と苦労をぜひ再認識して欲しいものです。 ■ 新潟の北洋漁業 江戸幕末から明治・大正期にかけて、新潟は北洋漁業の一大基地でした。幕末に活躍した樺太探検家の松田伝十郎や、樺太漁場の開拓者だった松川弁之助も新潟の人です。沼垂生まれの伏見半七や柏崎の関矢儀八郎や新潟の田代三吉などの先駆者があり、日露戦争の後、極東ロシア海域の漁業権を日本が獲得してから、さらに新潟漁業者の進出に拍車がかかり、日魯漁業会社(現在の株式会社マルハニチロ食品)を創業した三条の堤清六や新潟の田代三吉、片桐寅吉、高橋助七らが活躍しました。 魚獲はサケ、マス、ニシン、タラが中心でした。新潟では漁業会社、魚卸問屋のほか缶詰や塩干物の加工場、冷凍倉庫会社などがたくさん設立され、その後、魚類加工に必要なインフラが集積し、さらに磨かれてきたのでした。(新潟市グルメポンテ より) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 当時の絵葉書より、明治後期、林立する遠洋漁業帆船が河口を埋めるのが見える ![]() 下、大正・絵葉書より、遠洋漁業の基地となった信濃川左岸、スクーナー型帆が見える ![]() ![]() 下、川蒸気船と川船、奥に遠洋機帆船、大正末期~昭和初期 ![]() 下、新潟港西突堤の赤灯台と帰帆するスクーナー型機帆船、昭和初期 ![]() PS・大Sさん、連絡間に合わなかったね・・? |
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